【深掘り「どうする家康」】今川義元が軟弱なダメ武将だったというのは、大きな間違いだった
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は今川義元は、軟弱なダメ武将だったのか、詳しく解説することにしたい。
野村萬斎さんは、雄々しい今川義元を見事に演じきったが、世間での評判は「公家化した軟弱大名」である。だから、義元は桶狭間の戦いに敗れ、織田信長に討たれたのだという。義元が「公家化した軟弱大名」と言われたのには、もちろん理由がある。
たとえば、義元は太り過ぎて馬に乗れず、輿に乗って移動したといわれている。しかし、『信長公記』によると、義元は馬に乗って逃げたというのだから、そもそもが間違いである。また、討ち取られた義元の首には、公家風の鉄漿(かね、おはぐろ)が施されていたという。
そのような事情もあってか、「今川氏は公家文化に染まりきってしまい、すっかり軟弱化した」といわれている。果たして事実なのであろうか。今川氏歴代はもちろんのこと、義元も文芸に深い関心を持っていた。歌人で公家の今川為和を招き、和歌の指導を受けていたのも一つである。
そのようなこともあり、義元には公家化、軟弱化した大名のレッテルが貼られたのかもしれない。果たして、そういう理由だけで、義元は軟弱化した大名といえるのであろうか。
全国的に見ても、戦国大名の多くは和歌や連歌に興じたり、『源氏物語』や『伊勢物語』に親しんでいた。そのために、戦国大名は三条西実隆や一条兼良ら知識人と称される公家らと交流を深め、彼らへの献金の対価として文芸作品の写本を入手していた。
多くの戦国家法に記されているとおり、文芸に親しむことはある意味で、当主としての責務であった。一国の指導者には権威を身につけるためにも、豊かな教養が必要だったのである。
義元の名誉のためにいうと、何も朝から晩まで和歌や連歌に興じていたわけではない。『今川仮名目録追加』を制定したり、隣国に攻め込んで領土を拡大したり、検地を行うなど領国支配に腐心していた。
特に、駿河、遠江、三河の3ヵ国で実施した検地は、今川家の財政を豊かにした。また、寄親・寄子制度を整備し、軍役を賦課したことは、他国との戦争で優位に立つ政策だった。
このような義元の姿を確認すると、桶狭間でのたった1回の大敗北で「公家化した軟弱大名」と評価するのは、あまりに気の毒といわざるを得ないのではないだろうか。