【光る君へ】藤原伊周は藤原道長に先を越され自棄になったが、実はまだチャンスがあった
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周(道隆の子)が藤原道兼(道隆の弟)の後継者になることができず、道長(道隆の弟)が内覧を務めることになった。その後、伊周は道長との対決姿勢を強めたが、自棄にならなくてもチャンスはあったので、その点に触れることにしよう。
長徳元年(995)、関白の藤原道隆が飲水病(糖尿病)で亡くなると、跡を継いで関白になった弟の道兼も疫病によって病没した。ここで、後継者問題が浮上したのである。
その直後、後継者の座は伊周(道隆の子)が有力視されたが、蓋を開けてみると、道長(道隆の弟)が内覧に任じられた。その理由は、道長をかわいがっていた姉の詮子が、子の一条天皇に強く迫ったからだと言われている。
おまけに、道長は内大臣の伊周より下の権大納言だったが、続けて右大臣になった。これにより、すっかり伊周はくさってしまい、道長と口論になったり、あるいは弟の隆家の従者と道長の従者が激しい闘争に及ぶなどしたりしたので、両者の関係はすっかり険悪になったのである。
しかし、この時点で道長の栄達が約束されたわけではなく、伊周にもその後の成り行き次第では大いにチャンスがあった。
伊周は摂関家の長男筋の正統性を保持しており、妹の定子と一条天皇の関係も非常に良かった。もし、一条天皇と定子との間に男子が生まれ、さらに天皇になることがあれば、伊周が道長を逆転する可能性があったのである。
当時、道長の娘の彰子は8歳で、まだ幼かった。入内するには、もう少し時間が必要だったので、伊周は別に慌てる必要がなかったといえよう。
しかし、伊周の母の高階一族は、諦めていなかった。歴史物語の『栄花物語』によると、高階一族の者たちは、「道長が疫病で死ぬかもしれない」、「わしの目が黒いうちは諦めないで欲しい」と盛んに伊周をけしかけていたようである。
伊周は父道隆が関白だったので、若くして内大臣になるなど、まったくの苦労知らずだった。おじとはいえ、道長に追い越されたことは、とてもプライドが許さなかったのだろう。一方の道長の伊周への評価は、「伊周には関白にふさわしい器量がない」というものだった(『大鏡』)。
伊周には焦りがあったのか、女性の問題も絡んで、花山法皇を矢で射るという大事件を引き起こした。いかに従者が矢を放ったといえ、伊周は責任を逃れられなかった。事件については、ドラマの進行に合わせて、改めて取り上げることにしよう。