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関ヶ原合戦後、宇喜多秀家のあまりに苦しかった八丈島の生活

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
八丈富士。(写真:イメージマート)

 今や船舶、航空機の発達により、離島生活は改善された。都会から移住する人も多い。しかし、江戸時代初期はそうでなく、特に本土での暮らしが長かった宇喜多秀家は大変な苦労をしたので、その一端を取り上げることにしよう。

 慶長5年(1600)9月、西軍の宇喜多秀家は関ヶ原合戦で敗れ、薩摩島津氏のもとに逃亡した。秀家が八丈島に流されたのは、その6年後のことだった。

 八丈島における秀家の生活は、一次史料で再現するのは困難である。以下、二次史料の記述になり、史実か否か疑わしいものもあるが、秀家の生活ぶりを伝える逸話を取り上げておこう。

 『浮田秀家記』には、次のような話が載っている。あるとき秀家は、八丈島の代官・谷庄兵衛に招かれ、食事を共にする機会があった。しかし、秀家は出された食事を前にして、突然箸を下ろしたのである。

 理由を尋ねる谷に対して、秀家は「私は勘気を被った者であるがゆえに、代官と同じ膳をいただくことは、憚られるのではないかという懸念があります」と答えた。

 すると、秀家は懐から古い手拭を取り出し、膳の食べ物を包みだした。再び谷が理由を尋ねると、秀家は「私は八丈島に来てから妻子を持ちましたが、このように豪華な食事は八丈島で見たことがありません。だから、妻子に食べさせてやろうと思い、手ぬぐいに食べ物を包んで持ち帰ろうとしたのです」と答えたのである。

 秀家の言葉を聞いた谷は哀れに思い、同じ膳を妻子のために用意し、持ち帰らせたといわれている。

 『黄薇古簡集』には、備前船が八丈島へ漂着した際の逸話を紹介している。もう80余才になった秀家は、漂着した船が備前から来たと聞き、懐かしく思い、船に乗っていた者に声を掛けた。もちろん、船の者は老人(秀家)が誰であるのか知らない。

 秀家は船の者に「今の備前では、誰が国の支配をしているのか」と尋ねた。船の者は、「松平新太郎である」と答えた。秀家は「松平といってもたくさんいるが、本姓は何か」と再び問うた。

 というのも、秀家がまだ本土にいた頃には、徳川家が有力な大名に松平姓を与えていたからだった。秀家はそのことを知っていたので、敢えて尋ねたのであろう。

 船の人物が「池田である」と答えると、秀家は「それは輝政の孫か曾孫ではないか」と述べている。備前を離れて50年近く経っていたが、ふるさと備前岡山のことは気になっていたのであろう。

 秀家は長寿を保ったが、その間にかつて知る大名の多くは亡くなっていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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