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あまりに神経質だった足利義教の逆鱗に触れて、厳しく処分された公家たち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 東坊城益長は侍読(天皇に学問を教える役)を務めたほどの公家だったが、義教から2度も処分を受けた。1度目は永享元年(1429)9月、義教が春日詣をした際、密かにその行列を見物したことだった。

 2度目は翌年11月のことで、義教の直衣始(関白・大臣などが勅許を受け、初めて直衣を着用すること)の際に笑ったことである(『看聞日記』など)。これにより益長は、義教から所領を没収され、蟄居を命じられた。いずれも、ささいなことである。

 永享5年(1433)6月、義教の行列が一条兼良邸の側を通過しようとすると、その門前で闘鶏(鶏を戦わせる競技)が行われており、多数の見物人で賑わっていた。しかし、それが通行の妨げとなり、義教は激怒した。あまりの腹立たしさゆえか、義教は洛中の鶏を洛外に追放するよう命じた。

 有力公家の日野家も、義教から処分された。日野氏は義満以来の慣例として、足利氏と婚姻関係を通じて密接な関係にあった。しかし、義教は青蓮院の門跡だった頃から、日野義資(側室・重子の兄)と折り合いが悪かった。正長元年(1428)5月、義教は突如として義資の2ヵ所の所領を取り上げ、蟄居を命じた。

 それだけではない。義教の正室は日野栄子の姪・宗子だったが、夫婦関係は良くなかった。永享3年(1431)6月、義教は、側室の正親町三条尹子を正室とした。足利将軍家は日野家から正室を迎えていたが、その影響力を排除するため、尹子を正室に迎えたのである。

 永享6年(1434)2月、義教の側室・重子(義資の妹)は、義勝(のちの7代将軍)を産んだ。多くの人が義資の邸宅を訪問し、その誕生を祝した。

 義教は義資の邸宅に見張りをつけ、すべての訪問者を調べあげていた。その後、義教は祝賀に訪問した、公家らを大量に処罰した。しかも同年6月、義資は何者かに襲われ、不慮の死を遂げたのである。

 参議の高倉永藤は義資の不慮の死について、うっかり義教の仕業であると噂した。義教は永藤の話したことを知ると激怒し、薩摩の硫黄島への流罪を命じた。その2年後の1月、永藤は硫黄島で亡くなったのである。

 中山定親は、自身の日記『薩戒記』に「義教が将軍になってから、難に遭った人は数えきれない」としたうえで、義教に処分された公家や僧侶など約80人の名前を列挙した。ここに取り上げたのは、ほんの一部にすぎないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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