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伊藤みどり54歳が、国際大会を連覇。宇野昌磨と坂本龍一の美学を胸に「私の生きざまを伝える」

野口美恵スポーツライター
美しい滑りを披露したみどりさん(c)Luca Tonegutti

 今年も、アダルトスケートの季節がやってきた。54歳を迎えた伊藤みどりさんは、ドイツ・オーベルストドルフで行われた国際アダルト競技会(5月12〜17日)に出場。マスターエリートのアーティスティック部門で連覇を達成した。美しいピアノ曲に溶け込むように、やわらかく、しなやかな滑りで会場を魅了した。

「見守って下さるアダルトスケーター達の笑顔が、私にパワーをくれて、自然に笑顔になりました。このアダルト競技会は、純粋にスケートを楽しむことを思い出させてくれる、大切な場所。今年も来て良かった!」

 54歳のいま、みどりさんが伝えたスケートとは――。

「坂本龍一さんが命を削りながら演奏される音色が、胸に突き刺さりました」

 昨年はコロナ禍をへて、同大会に4年ぶりに出場したみどりさん。その後、現役時代の足の古傷が痛み、半年以上滑れない日々が続いたが、3月末に出場を決意した。

「どうしてもこの曲で滑りたいな、という曲に出会ったんです」

その曲とは、坂本龍一さんの『AQUA』。2023年に逝去された彼が、死の半年前に行った最後のピアノ・ソロの撮影で演奏された曲のなかの1つ。みどりさんはその演奏をテレビやインターネットで見る機会があった。

「坂本さんが、自分の人生の記録として録音されたドキュメンタリー。命を削りながら演奏される姿や、その音色が、胸に突き刺さりました」

 抗癌剤による治療を止めてまで、撮影を優先したという、坂本さんの命の演奏。自分の生きた証を残そうとするプロフェッショナルの姿は、みどりさんの心を動かした。

「私も、年々歳を重ね、怪我も痛み、レベルの高いスケートは出来なくなってきています。でもスケートがなくなったら、何のために生きているのかな、とも思いました。54歳になった今年もアダルト競技会に出るか、出ないか、自分の人生を振り返っていろいろと葛藤をしていましたが、迷いが吹っ飛んだんです」

 そしてこう続ける。

「やっぱり私にとっては、自分を表現できる場はスケート。坂本さんがピアノ演奏を通して自分の人生を残そうとしたのと、同じような気持ちです。私の生き様を残すには、滑り続けるしかない。その思いをこの曲で伝えたいなと思いました」

 振り付けは、振付師の服部瑛貴さんに依頼。「祈りと希望」をテーマに、たおやかで可憐なプログラムが仕上がった。

 みどりさんが出場を決意した一方で、同じ時期に、やはり今年の出場を迷っているアダルトスケート仲間がいた。ジャンプの調子が悪く、自信を失っているという。するとみどりさんは迷わずこう答えた。

「私達のアダルトスケートは、勝ち負けじゃないよ。楽しむスケートだよ」

 友人にそう話しながら、みどりさんは自分の目標を再確認した。

会場となるオーベルストドルフのスケート場(c)Yoshie
会場となるオーベルストドルフのスケート場(c)Yoshie

宇野昌磨さんの引退会見を観て「幸せな人生の区切りで良かった」

 ドイツ最南端のアルプスの街・オーベルストドルフに到着したのは5月12日の大会初日。遠くに雪の残る山々、青い空、菜の花の黄色と新緑の緑がおりなす美しい丘――。まさに“アルプスの少女ハイジ”の世界である。

「私、子供のころ、野原を裸足で駆け回っているような性格だったから、ハイジみたいだって言われていたのよね」と笑う。空いっぱいに手を広げ、太陽の光を浴びた。

 本番は5月14日。それは、同門の後輩である宇野昌磨さんの引退記者会見の日だった。インターネットでライブ配信された会見を、朝練前に見たみどりさん。後輩の門出に胸を熱くした。

「こんなにも爽やかな引退会見。世界王者にもなったのに、とても謙虚に振り返っているのも、昌磨くんらしいですね。周りは『まだ戦える』と思うかも知れませんが、このツヤツヤした笑顔を見れば、競技人生でやり残したことがないのだと分かります。浅田真央ちゃんの引退会見も、こんなすっきりした笑顔でしたね。人生の区切りを幸せな気持ちで迎えられたことが本当に良かったです」

 宇野さんの会見の一言一言に、笑ったり、うなずいたり。宇野さんもみどりさんも、同じ山田満知子の門下生で、世界の頂点を経験し、プロへ。みどりさんはさらに、プロ引退後の長い休養をへて、アダルト競技会という新しい生き方にたどり着いた。後輩のすっきりとした笑顔は、共感となってみどりさんの心を幸せにする。

 会見を見終えると、「じゃあ、私は今日が試合なので、行ってきます!」と、茶目っ気たっぷりに語って、リンクへと向かった。

Y字スピンは健在で会場をわかせた(c)Luca Tonegutti
Y字スピンは健在で会場をわかせた(c)Luca Tonegutti

緊張も幸せも、「試合じゃないと感じられないスペシャルなもの」

 オーベルストドルフの氷は純度が高く、硬質で、とにかく滑る。ひと蹴りするだけで、グンとスピードが出る。思わず全力でスピードを出し、イーグルだけでリンクの端から端まで60メートルを一気に滑った。

「楽しい! 風が気持ちいい!」

 試合の緊張や重圧があっても、それを上回る心地よさ。空を飛ぶかのように軽やかにリンクを縦横無尽に滑り抜いた。

 本番は、3人グループの最終滑走。アーティスティックカテゴリーのウォーミングアップは4分間のため、3分間はプログラム練習に集中。残り1分になったところで、試合には入れないアクセルジャンプを跳ぼうと、全力で助走に入った。

「アクセルを跳ぼうと思ってジャッジの前を通り過ぎたら、私の顔をみて、ジャッジが『アクセル跳ぶ気だな』って気づいたみたいで、みんなが笑っているのが見えました」

 まるで、いたずらを仕掛ける子どものよう。そのままスピードを殺さずに、走り幅跳びのようにアクセルを跳ぶ。気持ちよさそうに着氷するみどりさんに、会場から歓声が沸き起こった。

「今日は高さが出なくて、距離タイプだったかな! やっぱりアクセルは私のバロメーター。1本は跳んでおかないとエンジンがかからないわね」

 そう言って、チーム・ジャパンの仲間を笑わせた。

 みどりさんは、現役時代から、本番前はとても緊張するタイプ。それはトリプルアクセルのような大技がない今でも同じである。滑走順が近づくにつれて、表情が真剣になり、集中力を高めていった。

「本番の一発で、これまで練習してきたものが出せるかどうか。100%は無理でも、80%は出さなきゃいけません。1つ1つの技はしっかり決める。そのうえで、どんな気持ちで何を伝えるのか。この緊張感は、試合でしか感じられません」

 迎えた本番。やはり世界と戦ってきたみどりさんである。音楽が鳴ると、一瞬でゾーンへと入り込んだ。

「この『AQUA』の曲は、同じメロディが何度も繰り返されるシンプルな曲です。日本の曲だけれど、初めて聞く海外の方でも耳に、心に残るような素敵な曲。みんなの心のなかに刻まれる曲になると良いな」

 滑り始めると、自然と柔らかな気持ちで心が満たされた。雄大なイーグルや、Y時スピン、そしてフライングキャメル。みどりさんの魅力が詰まったプログラムで会場を沸かせる。そして何より、幸せそうな笑顔が皆に伝わり、会場全体を幸せな空気で包みこんだ。

「試合に向けてモチベーションを上げていくワクワク感、そして試合直前の緊張感、そして滑っているときに頬に感じる空気。すべてが試合じゃないと感じられないスペシャルなもの。試合前は『なんでわざわざ試合に出たのかな』なんて思うけれど、終えてみると宝物の時間になる。やっぱり私には試合が向いているのね」

 スケートが好き。その気持ちに正直に生きる。みどりさんらしい人生を、また今年もひとつ、氷に刻んだ。

幸せそうな笑顔でイーグルを披露した(c)Luca Tonegutti
幸せそうな笑顔でイーグルを披露した(c)Luca Tonegutti

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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