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【深読み「鎌倉殿の13人」】石橋山の戦いで危機一髪。源頼朝はどうやって危機を脱したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石橋山の戦いで負けた源頼朝は、どうやって危機を脱したのか(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」5回目は、石橋山の戦いが焦点となっていた。源頼朝は戦いに負けたにもかかわらず、どうやって危機を脱したのだろうか。

 なお、頼朝が勝利した山木館の襲撃については、こちらを参照。

■戦いの経緯

 治承4年(1180)8月、「打倒平氏」の兵を挙げた頼朝は、諸豪族とともに伊豆国の目代・山木兼隆の館を襲撃し、見事に勝利した。幸先の良いスタートである。

 勝利した頼朝の軍勢は、約300で相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に至った。なお、土肥郷は、有力な豪族・土肥実平の本拠である。

 一方、平氏方の大庭景親は頼朝を討伐すべく、股野景久、海老名季定、河村義秀、曽我祐信、佐々木義清、渋谷重国、熊谷直実、飯田家義、梶原景時ら3000余騎を率いて出陣した。その兵力には、10倍の差があった。

 頼朝の軍勢は自らの正当性を示すため、以仁王の「打倒平氏」の令旨を高々と掲げ、石橋山(神奈川県小田原市)に陣取った。その向かいには、景親の軍勢が陣を置いた。ここで両者の決戦がはじまる。

 その間、頼朝に与する三浦氏の軍勢は、景親の党類の館に放火し、気勢をあげていた。この情報を知った景親は、三浦氏の軍勢が到着する前に夜襲を仕掛け、頼朝を討とうと考えた。ちょうど暴風雨でもあり、夜襲を仕掛けるのには絶好のタイミングだった。

 頼朝は三浦氏の軍勢を頼みとしていたが、折からの大雨により、酒匂川が増水。三浦氏は足止めを食らい、予定通り頼朝の軍勢と合流することができなかった。

■開戦する

 いよいよ両軍が対峙すると、まず「言葉戦い」が北条時政(頼朝の代理として)と景親との間で行われた。夜襲とはいえ、景親は頼朝の陣営を奇襲しなかったのである。

 「言葉戦い」とは、戦いに先立って互いに言葉で相手をやりこめるべく、先祖の来歴を披露しながら、互いに応酬するものである。一種の戦いの作法でもあった。

 このとき景親は、自身の家系が後三年の役で戦った鎌倉景正の流れを汲むと述べた。そして、頼朝がかつての主人の子孫とはいえ、今となっては敵であり、平氏の恩義があることを強調した。

 こうして石橋山の戦いは開戦したが、しょせんは多勢に無勢である。頼朝率いる軍勢はたちまち敗北を喫し、頼朝は這う這うの体で逃げ出すことになった。

■助かった頼朝

 ところが、ここで意外なことが起こる。敵の飯田家義が頼朝に手を差し伸べ、逃亡のための手引きをしたのである。家義は景親に従ったものの、かつての所領争いの因縁があったので、頼朝を助けたという。

 頼朝は椙山へと逃亡したが、景親の追及は執拗で、ついに発見され攻撃を受けた。頼朝は残った軍勢で抵抗するが、やがて万策が尽きた。ここで頼朝は、実平の助言に従って匿われることにした。頼朝が籠ったという洞窟は、今もその跡が残っている。

 北条時政・義時父子は、甲斐国に向かって逃亡した。宗時は時政らと別行動をとったのが災いしたのか、途中で伊東祐親の軍勢に発見され、討たれてしまったのである。

 ここで、もう一つ頼朝に幸運が訪れた。景親は懸命になって頼朝の姿を探しており、平氏方の梶原景時も探索していた。景時は頼朝の居場所を知ったものの、その事実を景親に報告せず、違う場所に景親を案内した。これにより、頼朝は九死に一生を得る。 

■むすび

 頼朝の敗因は、ただでさえ軍勢が少ないうえに、三浦一族の軍勢と合流しそこなった点にあった。一方、それでも頼朝が命を長らえたのは、敵の飯田家義、梶原景時に助けられたからだった。本当に運が良い男である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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