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明智光秀の妻は謎が多く、あまりにミステリアスな女性だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀像。(写真:イメージマート)

 現在もミステリアスな雰囲気の女性はいるが、明智光秀の妻も同じだった。謎多き光秀の妻について考えることにしてみよう。

 光秀の妻は煕子といい、生年不詳である。父の名前は、妻木範煕(『綿考輯録』など)、妻木広忠(『妻木系図』)という2つの説がある。

 妻木氏は、土岐郡妻木城(岐阜県土岐市)を本拠とする武将である。広忠は織田信長の配下にあったが、のちに光秀の与力となった。妻が美濃国の出身ということは、光秀の出自ともかかわりがあるのかもしれない。

 光秀と煕子が婚約したのは、天文14年(1545)と伝わっている。2人の結婚に際しては、有名なエピソードがある。婚約後、煕子は疱瘡(天然痘)という病に罹った。病は完治したが、美しかった顔に瘢痕(あばた)が残った。

 父は光秀との縁談を破談にしたくなかったので、瓜二つである煕子の妹・芳子を身代わりにし、危機を乗り切ろうとした。しかし、光秀はこのトリックを見破り、煕子を妻に迎えたという。

 光秀は主君の斎藤道三が子の義龍と戦って敗死した後、牢人になった(光秀が斎藤氏に仕えたというのは疑わしい)。光秀の経済状況は非常に厳しく、連歌会を催す費用すら事欠いた。

 そこで、煕子は自分の黒髪を売って、連歌会を開催する費用を賄った。光秀は煕子に感謝し、側室を置かなかったというが、後述するとおり側室がいたという説がある。

 この2つの逸話は、光秀と煕子の夫婦愛を称えたものに過ぎず、史実ではない可能性が高い。

 『明智軍記』によると、煕子は天正10年(1582)の本能寺の変後、光秀の居城・坂本城(滋賀県大津市)で亡くなったとされている。しかし、西教寺(滋賀県大津市)の過去帳には、没年について異説が記載されている。

 天正4年(1576)10月、光秀は妻が病に罹ったので、病気の平癒を吉田兼見に依頼した。兼見はお祓いとお守りをもって光秀の妻を見舞ったので、同月24日には快方に向かった。喜んだ光秀は、兼見に折紙と銀子一枚を贈ったのである(以上、『兼見卿記』)。

 光秀の妻は快方に向かったが、同年11月7日に亡くなったという(『西教寺塔頭実成坊過去帳』)。法名は福月真祐大姉。墓は明智氏、妻木氏の菩提寺の西教寺にあるが、光秀の妻が煕子と同一人物であるかは確定し難く、側室の可能性もある。

 つまり、『明智軍記』などにあらわれる煕子は、『兼見卿記』や『西教寺塔頭実成坊過去帳』にあわらわれる光秀の妻という女性と同一人であるか否かは今後の課題であり、光秀が側室を置いた可能性も否定できないといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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