摂関政治、院政を経て成立した武家政権のはじまりは、保元の乱にあった
大河ドラマ「光る君へ」の舞台は、藤原一族が築き上げた摂関政治の全盛期である。その後、摂関政治に代わり院政が成立し、さらに武家政権(平氏政権)の誕生となる。今回は、保元の乱のその後を中心にして取り上げることにしよう。
保元元年(1156)7月に保元の乱が勃発すると、後白河天皇は源義朝、平清盛らを味方につけ、崇徳上皇の勢力(藤原頼長、源為義など)を討ち破った。
結果、崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は戦死し、為義は捕らえられて斬られた。こうして後白河天皇は、盤石な体制を築き上げたのである。
保元の乱は、武士の威力を思い知らされた戦いだった。しかし、清盛は播磨守に任じられたが、義朝は左馬権頭に任じられるに止まっており、その格差は明らかだった。
清盛だけでなく、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介になるなど、平氏一門が優遇された。義朝は、その待遇に少なからず不満を抱いたという。
同年閏9月、後白河天皇は7ヵ条からなる「保元新制」という公家新制を発布した。その内容とは、どのようなものだったのか。
その骨子の一つは、荘園整理令にあった。久寿二年(1155)以後、新たに荘園を立荘することを禁止し、年貢・公事を免除された本免田以外の加納余田を認めないことにした。
加納余田とは公田などを荘田とし、本免田に取り込むことによって、年貢などの負担を免れていた。その管理を担当したのが記録所という役所である。
ほかの条文は、神人・悪僧の濫行停止など諸寺社統制や仏神事用途の制限に加え、天皇が全国統治者であることを強調した点に特徴がある。
さらに保元2年(1157)10月、35ヵ条にわたる新制を発布したが、わずか12ヵ条しか伝わっていない。それは、主に朝廷内部に関する規範が規定されていた。
保元3年(1158)、後白河天皇は守仁親王(のちの二条天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を開始した。その背後で、後白河上皇を支えたのが藤原信西だった。
先の保元新制を立案したのも、信西である。信西は大内裏の再興や京都市中の整備を進め、かつて行われた諸行事を復活させた。信西は、後白河上皇の有能なブレーンだったのである。
保元の乱により武士が台頭したのは事実だが、実権を握るのは平治の乱を待たなくてはならない。平治の乱については、改めて取り上げることにしよう。