【光る君へ】藤原氏は栄達の道を歩むため、娘を天皇家に入内させるのに必死だった理由
大河ドラマ「光る君へ」で気になることは、藤原氏がいかにして天皇家と深い関係を持つかにある。具体的に言えば、自分の娘を皇太子や天皇に入内させることである。その点について、触れておくことにしよう。
平安時代においては、公家が天皇家と結びつき、栄達を遂げることは珍しくなかった。そのため、公家は娘を皇太子、天皇に入内させ、その間に男子が誕生すると大喜びした。理由は簡単で、生まれた男子が天皇になれば、自分が外戚として権勢を振るう可能性が出てくるからである。
初めて摂政になった藤原良房(804~872)の妻は、嵯峨天皇の娘だった。良房の妹の順子は仁明天皇に入内し、文徳天皇を産んだ。文徳天皇に入内したのが、良房の娘の明子である。
文徳天皇と明子との間に誕生したのが、清和天皇だった。こうして良房は、摂政として清和天皇を支えることになった。こうして藤原氏は、以後の繁栄の基盤を築き上げたのである。
このように考えてみると、藤原兼家が朝廷で権勢を振るうには、娘を皇太子や天皇に入内させ、その間に後継者たる男子を産むことが必須となった。それまでの兼家は、失脚するなどしていたので、復権するにはほかに手がなかったのである。
寛和2年(986)、花山天皇が退位すると、一条天皇が即位した。一条天皇の母は、兼家の娘の詮子である(父は円融天皇)。これにより兼家は摂政に就任し、子の道隆、道兼、道綱、道長らを一気に昇進させた。快く思わなかった公家もいたが、兼家はまったくのお構いなしだったのである。
道隆(兼家の子)は妻の貴子との間に娘の定子がおり、一条天皇に入内させた。兼家の死後、道隆が摂政、関白の座に就くことができたのは、その関係からだった。道長の娘の彰子も一条天皇に入内し、後一条天皇、後朱雀天皇を産んだ。藤原氏はこの繰り返しで、勢力基盤を形成したのである。
こうして藤原氏は摂関政治の全盛期を築き上げたが、のちに院政が始まり、摂関政治は終焉を迎えた。とはいえ、のちに誕生した平氏政権では藤原氏を真似し、平清盛が娘の徳子を高倉天皇に入内させ、大いに権勢を振るった。平氏一門が高位高官をほぼ独占したのは、よく知られた事実である。
現代ならば、藤原氏の行っていることは、「政治の私物化」といわれるに違いない。とはいえ、当時の人々の中にも、疎ましく思った人がいただろう。