Yahoo!ニュース

【光る君へ】藤原道長を支える源俊賢とは、いったい何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 紫宸殿。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、以前から明子(藤原道長の妻)の兄・源俊賢が登場していた。あまり目立たない人物であるが、道長にとっては重要な人物だったので紹介することにしよう。

 源俊賢が高明の子として誕生したのは、天徳4年(960)のことである。その5年後に誕生したのが妹の明子である。安和2年(969)、当時、左大臣を務めていた高明が安和の変により失脚し、大宰権帥に左遷された。その2年後、高明は許されて帰京したが、亡くなるまで隠棲生活を送った。

 俊賢は大学寮で学び、高明から厳しく育てられたという。しかし、高明の失脚により、その将来に暗雲が立ち込めた。しかし、天延3年(975)、俊賢は従五位下に叙爵されると、以後は順調に出世していった。その理由は、藤原兼家が後見として、俊賢・経房兄弟を支えていたからだと言われている。

 永延2年(988)、藤原道長(兼家の子)は、俊賢の妹の明子を妻とした。こうして俊賢は、藤原氏との関係を強め、以後も順調に昇進を重ねた。長徳元年(995)には参議となり、念願の公卿に列したのである。

 ところで、正暦3年(992)、俊賢は正五位下のままで蔵人頭を務めることになった。蔵人頭は四位・五位の者が務めたが、やがて四位の者が占めるようになったので、この人事は異例のことだったという。本来は、従四位上の藤原斉信が有力な候補だった。

 俊賢は自ら藤原道隆に申し出て、蔵人頭の地位を獲得したという。道隆は、俊賢のことを気に入っていたようである。そのような事情もあり、俊賢は道隆の恩義を忘れることはなかった。道隆の死後、中関白家(道隆を祖とする藤原一族)は子の伊周が失脚したが、その態度は変わらなかったという。

 長徳元年(995)に道隆、道兼兄弟が相次いで亡くなると、道長が内覧として一条天皇を支えることになった。その際、伊周は父・道隆の跡を継ぐことができず、無念の思いを抱いていた。俊賢は伊周に同情し、道長が内覧の宣旨を受けたとき、空眠りをして聞かなかったふりをしたと伝わっている。

 こうして俊賢は、父・高明が失脚したにもかかわらず、栄達の道を歩むことになった。その背景には、兼家、道隆の庇護を受けたこと、そして妹の明子が道長の妻だったことも深く関係していただろう。なお、俊賢は藤原公任、同斉信、同行成とともに、一条朝の四納言と称された。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事