【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の山木館襲撃は、どうして成功したのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」4回目は、源頼朝の山木館襲撃が焦点となっていた。先取りするようだが、なぜ頼朝の作戦は成功したのだろうか。
■時代背景
最初に、時代背景を簡単に確認しておこう。
治承4年(1180)5月、以仁王(もちひとおう)は「打倒平氏」の令旨(りょうじ)を各地に送ったが、あっけなく計画が露見。結局、一緒に挙兵した源頼政ともども非業の死を遂げた。明らかな準備不足である。
頼政は伊豆国の知行国主だったが、その死により平清盛の義弟・時忠が代わりに就任した。その際、目代に任命されたのが平兼隆である。
伊豆の知行国主と目代が平氏の息のかかった人物になったことは、東国の豪族に大きな影響を与えた。北条時政にとっては不利だったが、有利になる豪族もいた。
■豪族たちの反応
このままでは「座して死を待つ」と考えた頼朝は、配下の安達盛長に東国の豪族の考えを探らせた。挙兵の判断材料にするためである。
相模の有力な豪族だった波多野義常は、明確に回答をしなかった。同じく相模の有力な豪族の山内首藤経俊は、「頼朝は平氏に勝ち目はない」と嘲笑して追い返した。
一方、平氏からさまざまな圧迫を受けていたという、大庭氏、三浦氏、千葉氏、上総氏は、頼朝の挙兵に賛意を示した。彼らも「このままではマズイ」と考えていたのである。
■挙兵の決断
頼朝は、同年8月17日に挙兵することを決定した。挙兵前夜、頼朝は出陣する豪族を一人ずつ呼び出し、「他の人には言っていないが、あなただけが頼りだ」と声を掛けたという。頼朝流の人心掌握術である。
こうして、頼朝は有力な諸豪族の協力を確認し、挙兵を決断した。
一方、流罪になった頼朝を支えていた佐々木兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)は、挙兵の前日になっても姿を見せなかった。頼朝は大いに焦ったが、佐々木兄弟は洪水で到着が遅れただけだった。頼朝は感涙にむせんだという。
佐々木兄弟の遅参により、朝駆けするという計画が狂ったので、すぐに山木館を襲撃することにした。北条時政は三島大社(静岡県三島市)の祭礼で賑わうので、間道を通ることを主張したが、頼朝は拒否した。
■山木館を襲撃
行軍の途中、佐々木兄弟はドラマで時政の顔にナスを擦りつけた堤信遠(兼隆の後見)を討った。信遠を討ったことにより、頼朝軍には大いに弾みがついた。
頼朝軍が山木館の着くと、ただちに矢を放つなどし攻撃した。ちょうと山木館は、家人が三島大社の祭礼に出掛けており、警備が手薄だった。山木軍、絶体絶命である。
ところが、山木軍は激しく抵抗し、なかなか勝敗が決しなかった。そこで、頼朝は加藤景廉(かげかど)らを援軍に向かわせ、景廉には長刀を与えて兼隆の首を取るよう命じた。
結果、頼朝軍は山木軍に勝利した。兼隆は首を取られ、山木館には火が放たれた。頼朝は兼隆の首実検を行い、ここから「打倒平氏」の戦いが本格化するのである。
■むすび
頼朝の勝因は挙兵に際し、東国の諸豪族に対するリサーチをしたことだった。反平氏の意向を持つ諸豪族の取り込みに成功し、周到な準備を行った。この点は、以仁王や頼政と違う点である。
ただし、この時点で頼朝が将来、「幕府を作ろう」とか、「征夷大将軍になろう」と思っていたかといえば、それは違うだろう。
頼朝は「打倒平氏」の機運に乗じて、取り急ぎ伊豆における平氏勢力の掃討を行っただけで、その後の展望が明確にあったとは思えない。