【「麒麟がくる」コラム】明智光秀の埋蔵金伝説の真偽はいかに。光秀の墓が各所にある理由も考えてみよう
大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀の死後については触れられていない。今回は、明智光秀の埋蔵金伝説、各所にある光秀の墓・首塚を取り上げることにしよう。
■明智光秀の埋蔵金伝説
明智光秀に埋蔵金伝説があるのはご存じだろうか。
兵庫県丹波篠山市には、光秀が天正6年(1578)に多紀郡と氷上郡の境界に位置する金山に金山城(兵庫県丹波市・丹波篠山市)を築いたとの言い伝えがある。
ある日、光秀は宿屋の主人に歌を書き与えた。その内容は、金山城付近に埋蔵金を埋めたことをうかがわせる内容のものだったという。
本能寺の変後、光秀は家臣の進士恒興に対し、安土城(滋賀県近江八幡市)内の財宝を京都に運ぶよう命じたという。しかし、運搬の途中で、光秀の死の一報が伝えられた。
恒興は予定を変更し、丹波国周山(京都市右京区)の慈眼寺近くに財宝を埋めた。そして、運搬に関わった者を皆殺しにしたと伝わっている。
光秀の埋蔵金は、先述の兵庫県丹波篠山市、京都市右京区だけでなく、光秀の家臣が琵琶湖に沈めたという説のほか、光秀の居城・亀山城(京都府亀岡市)にもある。
実は、光秀の埋蔵金伝説は、光秀=天海説とも密接に関わっている。逃亡中に殺害されたのは光秀の影武者(あるいは身代わり)であって、実際に光秀は生き延びていたというのだ。しかし、かつて取り上げたとおり、光秀=天海説は成立しない。こちら。
結局、徳川家康が亡くなった元和2年(1616)、埋蔵金は明智家再興のために掘り出されたが、「護法救民」のために埋め戻されたという。ただ、真相は闇の中だ。
埋蔵金と言えば、徳川氏など多くの大名に逸話や伝承が残っているが、実在した例は皆無に等しい。光秀の埋蔵金も単なる逸話や伝承にすぎず、信が置けないと見るべきだろう。
■光秀の墓・首塚
「三日天下」などと称されるように、本能寺の変後における光秀の栄光は長く続かず、天正10年(1582)6月13日に落命した。光秀は、居城のある近江坂本(滋賀県大津市)に逃げる途中だった。
その首は本能寺に晒され、6月24日に京都・粟田口に首塚が築かれたという(『兼見卿記』)。無残な結果に終わったのであるが、光秀の墓・首塚は複数残っている。
1つ目は、京都府亀岡市にある真言宗寺院・谷性寺である。光秀の家臣・溝尾庄兵衛が光秀の首を隠しておき、のちに谷性寺に懇ろに葬ったという。そこに建立されたのが、「光秀公首塚」という供養塔だ。
この首塚をよく確認すると、安政2年(1855)に建立されたと書かれている。光秀の死後から、約270年も経過している。となると、実際に庄兵衛が首を埋めたというよりも、のちに光秀の菩提を弔うため建立されたと考えられないか。
2つ目は、滋賀県大津市にある天台宗寺院・西教寺である。同寺は、光秀が近江を支配した際、総門や庫裏を寄進したという。そうした関係から、光秀だけではなく、妻・熙子や明智一族の供養塔が建立されたという。明智光秀公辞世句の碑もある。
京都市山科区勧修寺御所内町には、光秀の胴体部分を埋葬したとの言い伝えがある。光秀の供養塔である。これは、光秀の一代記『明智軍記』に拠るもので、光秀が殺害された明智藪の近くで休息したとの記述に基づき建立された。
京都市東山区三条通白川橋下る東側には、明智光秀首塚なるものがある。光秀の首が埋葬されてから五重石塔が作られ、首塚と称されたと伝わる。
実は、光秀の墓は高野山(和歌山県高野町)にもある。いずれが本物かと問われれば答えに窮するが、それぞれの所縁の地で、光秀を慕う人々が菩提を弔いたいと願い、供養塔を建立したというのが事実であろう。
なお、今日から新しい大河ドラマ「青天を衝く」がはじまる。引き続き大河ドラマを楽しもう!