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織田信長が最後まで苦しめられた宗教戦争3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 現在も宗教を原因として、国家間の戦争になることは珍しくない。戦国時代においても、宗教をめぐりたびたび戦いがあった。特に、信長は激しく戦ったので、そのうち3つを取り上げることにしよう。

◎比叡山焼き討ち

 元亀2年(1571)9月12日、織田信長は比叡山の焼き討ちを敢行した。これにより、比叡山の諸堂は信長の将兵に焼き尽くされ、山内に住む僧侶などは、ことごとく殺害された。戦国時代でも、1・2を争うような大量虐殺だったといえよう。

 山科言継の日記『言継卿記』などの史料によると、信長の焼き討ちは「仏法破滅」と書かれているように、手厳しく非難されている。

 当時の比叡山の僧侶は信仰や修行を忘れ、肉食、飲酒、金儲け、女性との交わりに耽っており、宗教者としての本分を忘れていた。

 また、信長は朝倉義景、浅井長政と対立していたが、比叡山は信長に歯向かって、朝倉・浅井両氏に味方したので、信長はそのことが許せなかった。信長が比叡山を焼き討ちにしたのは、そういう理由があったのだ。

◎伊勢長島一向一揆

 元亀2年(1571)、伊勢国長島(三重県桑名市)の一向宗の拠点だった願証寺は、顕如の命を受けて信長に兵を挙げた。信長軍は約10万の一揆勢を相手にして、意外にも苦戦を強いられた。

 このときは勝利しなかったものの、天正元年(1573)9月、信長は2回目の長島一向一揆への攻撃を開始した。

 信長は大湊(三重県伊勢市)惣中の舟を徴発して桑名へ向かい、海上での戦いを有利に進めた。さらに九鬼水軍を味方にし、翌年9月頃にようやく一揆を鎮圧したのである。

 信長は一向一揆を許さず、一揆勢が籠る長島・中江の2つの城を幾重もの柵で囲んで放火したので、2万の男女は焼死し、撫で斬り(皆殺し)にされたのである。

◎大坂本願寺

 元亀元年(1570)9月、大坂本願寺は三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)らと協力し、足利義昭・織田信長に戦いを挑んだ。

 これまで、大坂本願寺は信長に抵抗するために戦いを挑んだと言われてきたが、それは誤りである。大坂本願寺が先制攻撃を仕掛け、信長が応じたのが実情だった。

 天正元年(1573)、大坂本願寺が頼みとする朝倉氏、浅井氏が信長に滅ぼされたので、1度目の和睦をする。

 天正2年(1574)、大坂本願寺は信長に再び戦いを挑んだが、同年には伊勢長島一向一揆、越前一向一揆も殲滅されたので、大坂本願寺は信長に2度目の許しを乞うた。

 天正4年(1576)、毛利氏が義昭を推戴して信長に叛旗を翻すと、大坂本願寺は信長に3度目の戦いを挑んだ。しかし、4年後の天正8年(1580)、大坂本願寺はついに信長に屈したのである。

◎まとめ

 これまで、信長は宗教勢力を弾圧するため、比叡山や大坂本願寺などに戦いを挑んだとされてきたが、現在、それは誤りとされている。

 戦後、信長は彼らに布教を許したことから、それらの説が誤りなのは明らかだ。信長が彼らと戦った理由は、単に歯向かったからである。信長に従えば何も問題はなく、以後、両者は良好な関係を保ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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