【光る君へ】疫病で亡くなった人の死体は、葬られず道に打ち捨てられていた
大河ドラマ「光る君へ」では、京都市中に疫病が蔓延し、人々が次々と亡くなる模様が描かれていた。現在であれば、亡くなった人の死体は適切に葬られるが、当時はどのように扱われたのか確認することにしよう。
現在ならば、人が亡くなると役所に届け、その後は火葬される。その手続きを怠り、あろうことか死体を放置したり、遺棄したりしたら、法律により罰せられる。しかし、正暦、長徳年間にわたって蔓延した疫病では、死体が遺棄あるいは放置されたのが実情だった。
疫病が蔓延したのは、正暦4年(993)6月頃だったことが記録で確認することができる(『日本紀略』)。病名は「疱瘡」と書かれているので、今で言うところの「天然痘」だろう。当時、天然痘には有効な治療法や特効薬がなく、まったくなす術がなかった。せいぜい神仏に病気の平癒を祈念するしかなかったのである。
疫病は蔓延したものの、まったく終息の目途がつかず、1年を経過しても状況は変わらなかった。いや、酷くなっていった。死者の数があまりに多かったので、道を塞いだと伝わっている。すでにマンパワーがなく、死体の処理すら十分にできなかったのである。
問題だったのは、先述のとおり有効な治療法や特効薬がなかったので、疫病に罹った人の扱いが問題となった。朝廷では看督長らに対して、小屋を設営してむしろで覆い、疫病に罹った人々を収容させたという。
これ以上、疫病を蔓延させないための措置である。あるいは、病人を薬王寺に移送することもあった。もはや、病人を隔離するくらいしか、まったく手がなかったのである。
しかし、死者の数は一向に減ることがなかった。道に放置、遺棄された死体はやがて腐敗し、死臭を放った。当初、犬やカラスが死体を口にしていたが、やがて飽きてしまったとまで伝わっている。とにかく死体は道に転がっており、病人は家で伏せるという状況が続いたのである。
死体が転がっていたのは、道だけではなかった。平安京には水路があったが、水を求めて死んだ人の死体が浮かんでいた。あるいは、死体を水路に投げ込んだかもしれない。
その水を人々が利用していたのだから、衛生上良くないのはたしかである。さらに疫病が蔓延する原因となった。そこで、朝廷は検非違使らに命じて、水路の死体を処分させたのである。
一説によると、京都市中の半分の人が疫病で亡くなったという。この数字には誇張があるかもしれないが、朝廷が膨大な数の死体の処理に困っていたのは事実であろう。