【「麒麟がくる」コラム】本能寺の変後、明智光秀は天海として生き延びたのか!? その真相を探る!

天海の像。明智光秀は山崎の戦い後も生き延び、天海になったといわれている。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■光秀は天海になったのか!?

 大河ドラマ「麒麟がくる」を先取りするようであるが、今回は明智光秀が天海だったという説について考えてみよう。通説によると、天正10年(1582)6月の山崎の戦い後、光秀は土民によって殺されたことになっている。

 しかし、実は光秀は殺されることなく生き延び、天海になったという説がある。この説は、すでに大正時代に須藤光輝『大僧正天海』(冨山房)で指摘されていたが、長らく取り沙汰されることはなかった。しかし、近年はテレビなどで取り上げられ、俄然注目されている。

■そもそも天海とは

 天海は、徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧侶である。生年は天文5年(1536)説が有力で、亡くなったのは寛永20年(1643)である。なんと、100歳を超える長命であった。

 ちなみに光秀の生年は享禄元年(1526)が有力なので、天海よりは10歳ほど年長である。同時代の人物といえば、たしかにそうかもしれない。

 天海は家康、秀忠、家光の3代にわたって徳川家に仕え、江戸幕府の宗教政策に参与した。特に、家康の懐刀といわれたほどである。

 では、なぜ光秀=天海説が唱えられたのであろうか。いくつか根拠となる理由を取り上げて、考えてみることにしよう。

■将軍との関わりから

 江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の「秀」字は光秀の「秀」字を採用したという。しかし、一般的に秀忠の「秀」字は、豊臣秀吉の偏諱を受けたといわれているので、この説はまったく当たらない。

 同じく3代将軍・家光の諱も光秀の「光」字を採ったというが、実際には金地院崇伝が選んだものなので正しいといえない。いずれも、光秀(=天海)が関与したものではないのだ。

■家紋や石灯籠に刻まれた名前

 日光東照宮(栃木県日光市)陽明門の随身像の袴などには、明智家の家紋・桔梗が用いられているというが、これは織田家の家紋・木瓜紋が正しい。単なる見間違いである。やはり、光秀(=天海)は関係ないようだ。

 比叡山の天台宗松禅寺(滋賀県大津市)に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠があることから、この「光秀」が明智光秀のことを示し、天台宗の僧侶・天海が関わっていたのではないか、という説がある。しかし、「光秀」はありふれた名前であり、必ずしも明智光秀と同一人物であるとはいえない。

■明智平という地名

 栃木県日光市には、明智平という場所があり、今も観光地として人気のスポットである。明智平の命名者は、天海であるとの伝承がある。

 ゆえに天海は光秀だったと指摘されるが、命名も単なる伝承にすぎないと考えられ、本当に天海が名付けたとはいえないようだ。明確な根拠がない。

■「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた天海

 関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」には、鎧で身を固めた天海の姿が描かれている。軍師的な役割ならば、戦闘の経験のある光秀にほかならないという。ゆえに光秀は、天海になったとの指摘がある。

 天海が関ヶ原合戦に出陣したか確証を得ないが、安国寺恵瓊のように戦場に赴いた僧侶は存在する。そもそも、後世に成った合戦屏風にどこまで信憑性があるのか疑問である。やはり、根拠は薄弱であり、とうてい信を置けないものである。

■本当に天海は光秀だったのか

 ほかにも光秀=天海説の根拠は提示されているが、いずれもこじつけの域を出ないもので、証拠になりえないものばかりである。

 したがって、光秀=天海説はまったくの想像の産物で、成り立たないのである。テレビなどで繰り返し特集されているが、怪しいので気を付けよう!