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文禄の役が勃発。豊臣秀吉は朝鮮人への略奪行為を禁止したが、有名無実だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 いまだに戦争のある地域では、民衆が捕らわれの身になることが珍しくない。

 それは戦国時代も同じで、人の略奪は「乱取り」と称された。文禄の役の際、豊臣秀吉は乱取りを禁止したが、それは実効性があったのだろうか。

 戦国時代の戦争は、乱取りが軍事的な慣行になっていた。将兵は乱取りで自らの懐を潤し、ときに戦争よりも乱取りを目的とした将兵すらいた。

 しかし、秀吉は乱取りにより、農民がいなくなった耕作地が荒れ果てることを恐れ、人身売買を禁止した。戦争後の復興が進まないからだった。

 そのような国内事情を踏まえて、実際に秀吉が朝鮮出兵時に出した方針は、天正20年(1592)4月26日付秀吉朱印状に次のとおり書かれている(「毛利家文書」)。

①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。
②飢餓に苦しむ百姓を助けること。
③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。
④法令順守の徹底。

 ①は、戦後もとの居住地に戻った百姓や町人に対して、米銭金銀を課してはならないという命令である。秀吉は日本国内の戦争でも、百姓や町人の還住策を進めていたので、その例に倣ったものである。

 秀吉は朝鮮半島を蹂躙して放置するのではなく、戦後復興と長期にわたる支配を考えていたということになる。②についても同様の趣旨と捉えてよく、耕作地を耕す百姓が死んでしまっては、元も子もないという考えによる。

 ③での冒頭では放火を禁止したが、重要なのは補足の箇所で、日本軍が男女にかかわりなく朝鮮人を生け捕りにした場合は、もとの居住地に返すことが規定されていることである。

 秀吉は戦場における乱取りを禁止し、人々の還住策を積極的に推し進めたことになる。

 ④における法令順守はその延長線上にあり、数多くの禁制が「高麗国」宛に発給された。禁制とは軍勢の不法行為(放火、乱暴狼藉)を定めたもので、本来は寺社や村落の申請によって、金銭と引き換えに交付された。

 この場合は、秀吉が諸大名の軍勢が乱暴狼藉を働かないよう、あらかじめ交付したものだろう。なお、禁制を得るには金銭との引き換えが基本だったが、朝鮮半島の戦争だったので、無料で交付されたと考えられる。

 このように秀吉は乱取りを禁止し、朝鮮人の還住を推し進めたが、このことが末端の将兵まで徹底されたかといえば、大きな疑問である。日本で長年の軍事慣行だった乱取りは、そう易々と止めることができたのだろうか。

 結局、秀吉の強い決意にもかかわらず、乱取り禁止の方針は将兵に無視され、戦時中の朝鮮半島各地で乱取りが行われたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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