フーテン老人世直し録(590)

水無月某日

 「知の巨人」と言われたジャーナリスト立花隆氏の訃報が伝えられた。立花氏は文芸春秋社員からフリージャーナリストになり、1974年に月刊『文芸春秋』に書いた「田中角栄研究~その金脈と人脈」が田中退陣のきっかけを作ったと言われ、ジャーナリズムの世界に一時代を築く存在となった。

 膨大な資料を丹念に読み解いて書き上げる手法は「調査報道」の先駆けとも言われ、74年当時テレビドキュメンタリーのディレクターであったフーテンにとって、立花氏は仰ぎ見る存在であった。

 しかし田中退陣後に起きたロッキード事件で、東京地検特捜部を取材したフーテンは、田中逮捕に釈然としないものを感じた。事件の本命と思った対潜哨戒機P3C購入疑惑が解明されず、最も巨額の資金がロッキード社から振り込まれた児玉ルートは、捜査の対象から外されたまま事件に終止符が打たれた。

 一方の立花氏は、ロッキード裁判の傍聴記を週刊「朝日ジャーナル」に連載し、金権政治家を糾弾する急先鋒として「総理大臣の犯罪」を世に浸透させていく。そして立花氏が火をつけた「金権政治批判」は日本列島を覆いつくし、国民のコンセンサスになった。

 しかしそれと反比例するように、政治の世界では田中の力が衰えるどころかますます強まり、田中は「闇将軍」と呼ばれ、総理の時以上の権力を握った。刑事被告人が政治を操る国家とは何か。それを許す日本の民主主義とは何か。フーテンはロッキード事件後その疑問に取りつかれていた。

 田中に一審判決が下される直前、フーテンは希望して政治記者になった。田中角栄の最期を見届けるためである。有罪判決が下されれば田中の政治生命は終わりになると信じていた。政治記者となって最初に担当したのは自民党中曽根派である。

 当時の中曽根総理は田中の意志で総理に就任するが、自民党の中にそれを是とする者はおらず、田中派内も「オヤジの意向だから仕方がない」という程度だった。そうした中で一審は有罪判決だった。野党とメディアは一斉に田中の「議員辞職」を要求、すると田中は嫌がる中曽根に解散を命じた。

 真冬に行われた「ロッキード選挙」で、田中はかつてない大量票を獲得して当選する。新潟3区の選挙民は有罪判決を投票行動で跳ね返したのである。一方で、自民党は過半数を獲得できず、新自由クラブと連立するしかなくなる。田中の力は上向き、中曽根はますます田中に頼るしかなくなった。

 中曽根派を担当したフーテンは、佐藤孝行衆議院議員だけが派内で特別扱いであることを知る。閣僚人事で佐藤は毎回推薦名簿の第一位だ。しかし決して入閣はできない。なぜなら佐藤はロッキード事件で一人だけ有罪判決が確定した政治家だからである。

 それでも中曽根派は佐藤を毎回推薦名簿の一位にした。その佐藤は中曽根総理と田中の間の連絡役を担っていた。弱小派閥の中曽根は田中の考え通りに政権運営をやらないと、たちまち総理の座から転落する。佐藤は中曽根にとって命綱に等しかった。

 ロッキード事件で逮捕された田中と、有罪判決が確定した佐藤、その間に中曽根がいる奇妙な構図にフーテンは注目した。それを解明するまたとないチャンスが訪れる。フーテンは田中派担当を命ぜられ、しかもその前に早坂秘書と大喧嘩をしたことが幸運につながった。

 早坂秘書がフーテンを覚えていて、田中の「話の聞き役」になることを頼まれたのである。田中は「議員辞職勧告」をかわすため、「自重自戒」と称し目白の私邸に籠っていたが、誰とも合わずにいるため、しゃべりたくて仕方がないのだという。だから「話の聞き役」をやってくれと言われた。

 それから月に一度、目白の私邸を訪れて「話の聞き役」をやった。田中は昔の話から現在の政治に至るまで毎回機関銃のようにしゃべりまくる。その中で立花隆氏の「金脈研究」をどう思っているかを聞いた。「俺は自前で金を作った。だからひも付きではない」と田中は言った。

 田中に言わせれば、与党政治家は財界か官界からの金で政治活動を賄っているが、自分は金を自前で作ったというのだ。それのどこが悪いと言う。立花氏はその金の作り方を問題にしたわけだが、本人はまったく悪いと思っていない。金脈を追及されたため総理を辞めたというのは違うかもしれないとフーテンが思ったのはその時だ。

 そしてその頃の田中はこちらが首をかしげたくなるほど娘の真紀子氏を批判した。その口ぶりの激しさから、この父娘には余人には分からぬ葛藤があることを感じさせた。そしてフーテンは立花氏の「金脈研究」ではなく、同じ『文芸春秋』に掲載された児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」の記事の方が、田中退陣のきっかけではないかと思えてきた。