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武田信玄を支えた異能の3人の軍師。その知られざるエピソードとは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄。(提供:アフロ)

 大手企業の業績は上向きといわれているが、きっと社長を支える有能な社員がいるからに違いない。甲斐の武田信玄にも、そういう人材が数多くいたので、そのうち3人を取り上げることにしよう。

◎判兵庫

 判兵庫は生没年が不詳で、安土(滋賀県近江八幡市)の出身だったといわれている。軍師というよりも陰陽師であり、花押の形状をもとにした卜占(占い)が得意だったという。判兵庫は信玄からその才覚を認められ、信濃国内に100貫文の知行を与えられたと伝わっている。

 このように判兵庫は信玄から厚遇されたが、急に陰陽師の仕事が嫌になり、武田家を辞することを決意した。その後、判兵庫はもらった知行を返上し、郷里の安土へ戻ることにしたが、子を甲斐に残したという。これには、武田氏の家臣も驚いたらしい。以上の話は『甲陽軍鑑』に書かれたものである。

◎小笠原源与斎

 小笠原源与斎は生没年が不詳で、出身地すらわからない。源与斎が得意としたのは、「奇特」と称される術だった。たとえば、遠方の山に火を点けてみたり、あるいは人々が見守る中で、風呂の中から外に出るというような術を得意にしていた。また、方角で吉凶を占うことに長じていた。

 しかし、武田氏の家臣の中には、源与斎が得意とした「奇特」に強い疑念を持ち、単なる座興に過ぎないと思う者も少なからずいたという。そのようなこともあり、源与斎は少しずつ重んじられなくなったというが、こちらも『甲陽軍鑑』に書かれたものである。

◎駒井高白斎

 駒井高白斎は生年が不詳だが、亡くなったのは天文22年(1553)であるという。日記『高白斎記』を書いたことでも知られている。高白斎が得意にしたのは、「観天望気」と称される天気予報だった。合戦時、天気は重要な要素だったので、高白斎は重用されたのである。

 信虎が初陣を飾った勝山城(山梨県都留市)の戦いにおいて、敵が氷雨や寒風によって油断した時間帯があり、高白斎はこれを逃さず攻撃するよう進言した。これにより信虎は勝利したのである。このように、高白斎は天気の推移を予想するのが得意だったようで、武田氏に重用されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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