【光る君へ】父・藤原道隆の死を間近にして、後継者となる野望が潰えた伊周
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、とうとう藤原道隆が亡くなってしまった。問題は、その後継者である。道隆の死の間近、伊周は策謀を巡らしたが、失敗したので紹介することにしよう。
正暦5年(994)11月、道隆は病に伏せていた。一説によると、糖尿病だったといわれている。道隆は我が子の伊周を後釜に据えるべく、自分が引退して地位を譲ろうとした。長徳元年(995)2月、道隆は辞表を提出し、伊周を擁立すべく策を検討したのである。
一条天皇は当座の策として、関白の道隆が病気の間、まず文書を道隆に見せ、次いで内大臣の伊周に見せるようにすることにした。一条天皇は、とりあえず伊周に道隆の補佐をさせようとしたのである。ところが、この話を聞いた伊周は激怒した。というのも、最初の話では、自分1人で行うようになっていたからだった。
伊周の抗議が実ったのか、言い分が通った。当時、伊周は22歳だったので、すべてを任せるにはあまりに若かった。一条天皇は、その点を憂慮していたのだろう。ところで、ここで不可思議なことが起こった。
当初、詔勅の文面は「関白の道隆が病気の間、文書は内大臣の伊周に見せよ」だったが、あたかも道隆から伊周に替わったかのように文面が改められていた。そうなると、仮に道隆の病気が回復しても、伊周が内覧を続けるようになってしまう。なぜ、そのようなことになったのだろうか。
文面を改めるように指示したのは、伊周のおじの高階信順だった。信順は道隆、伊周と関係したことにより、国守になるなどの恩恵を受けていた。それゆえ、伊周が道隆の後継者になることを強く希望し、文面を改めたのである。しかし、文書の改竄はすぐに見破られ、この策謀は失敗に終わった。
文書の改竄を日記『小右記』に記録したのは、藤原実資である。実資は、こうした不正が許せなかったようである。文書の改竄については、「謀計があまりに酷すぎる」と激怒した。実直で几帳面な実資は、こうした不正を許せなかったのである。
当時の公家社会では、父が亡くなったとはいえ、すんなりと摂政や関白の地位を子が継げるとは限らなかった。伊周の策謀は失敗に終わったので、道隆の死後はその地位をめぐって争うことになった。伊周のライバルは、おじの道長だったが、その点は追って取り上げることにしよう。