貞観地震津波と東日本大震災

 今から10年前の平成23年 (2011年) 、3 月11 目14 時46分に発生した三陸沖を震源とした東北地方太平洋沖地震は、東日本大震災を引き起こし、東北から関東にかけての東日本一帯で甚大な被害をもたらしました。

 各地の震度は、宮城県栗原市で震度7をはじめ、福島、茨城、栃木の各県では震度6強を観測し、岩手県大船渡市、群馬県桐生市、埼玉県宮代町、千葉県成田市などでも6弱でした。

 このため、広い範囲で建物倒壊などの被害があり、関東地方では大規模な液状化が発生しましたが、約2万人の犠牲者の多くは地震によって発生した巨大津波によってです。

 三陸沖ではマグニチュード8程度の大地震が多く、大津波が発生していますが、東日本大震災時のような巨大津波となると、貞観地震・津波以来、1142年ぶりということになります。

 平安時代に藤原時平や菅原道真等によって編纂された歴史書「日本三代実録」には、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代、約30年間が記されています。

 この「日本三代実録」によると、貞観11年5月26日(869年7月9日)には、陸奥国(現在の福島・宮城・岩手・青森の各県)で、「驚濤湧潮、折洞濫長」があり、多賀城の城下(現在の宮城県多賀城市)城下まで津波がおしよせ、あたり一面が海のようになったと記されています。

 また、「日本三大実録」には、清和天皇が自らお召し物や食事を質素にして節約を呼びかけたことや、公卿の俸禄を減じたこと、慰問の使者を陸奥国に送ったこと、被害の大きかった地域の税を免除したことなども記されています。

 また、貞観地震・津波の前に発生した地震や津波については、津波堆積物の地質調査

堆積物の中に混じる津波で遠くから運ばれた砂の層の規模と、含まれている木片の放射性炭素の年代調査という方法で推定できます。

 これによると、仙台平野では、貞観地震・津波クラスの巨大津波は、1000年に1 回程度で何回もおきていることが、東日本大震災が発生する前から指摘されていました。

 例えば、東日本大震災の約9か月前、次のような記事が新聞各紙に載っています。

平安の県沖地震M8.5国内最大規模 大地震500~1000年周期か=宮城

◆産総研 津波の痕跡から推定

 平安時代の869年に県沖で起きた「貞観地震」が、マグニチュード(M)8.4程度だった可能性が高いことが、産業技術総合研究所(茨城県)の調べで分かった。地震のエネルギーは、近い将来の発生が予想される県沖地震の約20倍にあたり、国内最大級となる。500~1000年周期に大津波を伴う地震が起きたことを示す分析結果もあり、研究チームは「県沖地震と合わせて警戒が必要」としている。

引用:読売新聞(平成22年(2010年)6月2日朝刊)

 東日本大震災の巨大津波は、想定外のものではなく、想定内のできごとでした。

 ただ、発生する間隔が、私たちの一生に比べて桁違いに長く、教訓の伝承ができなかったのです。

災害が相次いだ清和天皇の御世

 天安3年4月15 日(859年5月20 日)に清和天皇が即位し、元号が貞観と変わりますが、この貞観時代は自然災害が相次いでいます。

 平安京(京都)は、京の東を鴨川(現在の賀茂川)が、京の西を桂川が流れている都です。

 このため、都ができたときから両河川に対する洪水対策が重要な課題となっており、防鴨河使という役所が置かれたこともあります。

 「日本三代実録」によると、貞観2年9月14~15日(860年10月6~7日)には、台風が襲来して大風が吹き、桂川と鴨川がともに氾濫して東西交通がマヒしています。

 また、大阪湾で高潮が発生し、広い範囲で人や家畜に被害がでています。

 そして、貞観6年(864年)から始まった富士山大噴火では、北西山腹からの噴火で流れでた溶岩が青木ケ原を作り、「せのうみ」と呼ばれた湖を、精進湖と西湖に二分しています。

 貞観11年(869年)は貞観地震・津波があり、貞観13年(871年)は、出羽(山形県)の鳥海山大噴火です。

 さらに、貞観13年閏8月7~13日(871年9月28日~10月2日)は、平安京で雷を伴った大雨が降って橋を流し、庶民の家が、その数がわからないほど壊れ、その後も雨が続き、7日後には再び河川が氾溢しています。

 「日本三代実録」によると「朱雀大路の東側 (左京)で35家138人、西側(右京)で630家3995人の被災者」がでています。

 ここで、被災者数が記録されているのは、朝廷が食料や塩を配っているからです。

 これほどの自然災害が相次いだ貞観時代ですが、ちょっとしたことで改元が行われていた時代に、貞観という元号は、清和天皇が皇子の陽成天皇に譲位するまでの19年続いています。

 清和天皇の御世は「貞観の治」といわれています。

 もともと、この言葉は、中国唐の第2代皇帝太宗の治世(627年から649年で元号は貞観)をさす言葉で、中国史上最も良く国内が治まり、後世から理想時代とされています。

 このことは、自然災害が相次いだものの、政府と人民が協力して災害に立ち向かい、政治が安定していたことの反映と思います。

災害を忘れないための工夫

 昔から、大きな災害が発生すると、そのときの教訓を後世に残そうという様々な試みが行われます。

 東日本大震災のあと、貞観地震・津波のときの石碑が残っているとかの話が出てきましたが、1000年も経過すると、何のための石碑かということが分からなくなっています。

 風雨にさらされて読みにくくなっており、かろうじて読んだとしても、こんな山奥まで津波がくるなんて考えられないという感覚です。

 当然のことながら、防災には結びつきませんでした。

 貞観地震・津波は当時の人々にとって大変な出来事で、しばらくははっきりした形で伝承されてきました。

 百人一首に「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは」という和歌があります。

 「涙を流しながら貞観地震津波で浪が押し寄せてきても波が越えなかった末の松山のように、二人の愛は変わらないと誓ったのにあなたは心変わりした」という意味で、清少納言の父、清原元輔が作った失恋の歌です。

 この「末の松山」は現在の多賀城市の末松山宝国寺の裏にある小山で、貞観地震津波で近くまで津波が押し寄せましたが、浪が越えなかったということで有名でした。

 平安時代は貞観地震津波が伝承されており、多くの文化人が「末の松山」というだけで巨大津波を思い出し、付近まで旅した都の人は足を延ばして訪問しています。

 しかし、内陸部にあって海とは関係がなさそうな「末の松山」は、次第に忘れられていきますが、松尾芭蕉は「末の松山」まで足をのばして訪問しています。

 月日は流れ、東日本大震災の巨大津波は、多賀城市に再び襲来しましたが、「末の松山」を津波が超えることはありませんでした。

 また、京都の有名な祭りに祇園祭があります。

 非業の死者の霊を鎮め神として祀ることで霊は鎮護の神となる考え方が御霊信仰で、そのため行うのが御霊会です。

 当時流行した疫病退散を祈願するため、貞観5年(863年)に始まったとされますが、山鉾巡行が始まったのは貞観11年(869年)、貞観地震・津波の年からです。

 貞観地震・津波のニュースがいつ京都に伝わったのかわかりませんが、律令体制で駅伝の制が頭著な発達をしていた時代ですので、地震発生の約10日後の6月7日には第一報が都に伝わっていたのではないかと思います。

 というのは、勅命により全国の国の数と同じ66本の矛をたてたのが、この6月7日で、洛中の男児が御輿を奉じて内裏裏の神泉園に集まり、御霊会を修して除疫を祈ったのが勅命7日後の6月14日です。

 そして、国の数と同じ66本の矛に悪霊を移し、この矛をたてて祇園社から御輿を出したというのが、祇園祭りの最初の山鉾巡業です。

 つまり、貞観11年(869年)の御霊会が事実上の祇園祭の起源とされ、令和元年(2019年)には、祭の1150周年が祝われています。

 しかし、東日本大震災が発生するまでは、貞観地震・津波のようなことが起きることは信じられなくなったことから、祭りの起源としては認識されていませんでした。

 祇園祭そのものは伝承されていますので、起源まで伝承されていたら、1000年以上も災害の教訓が伝承されたことになります。

 なお、律令制における国の数は、分国と統合が繰り返されてきましたが、弘仁4年(813年)の加賀国設置を最後に、66国2島(壱岐島、対馬島)となり、明治維新まで変わることはありませんでした。

100年後まで忘れない工夫

 貞観地震・津波の教訓のように、1000年以上も災害の教訓を伝承するというのは、非常に難しいことですが、100年後まで忘れない特別の工夫には、役だった例が僅かですがあります。

 その一つが、明治29年(1896年)6月15日に発生し、約2万2000人が死亡した明治三陸地震の伝承です。

 明治三陸地震では、北海道から東北地方の太平洋側を大きな津波が襲い、死者が約2万2000名、家屋流出全半壊が1万棟以上、船の被害約7000 隻という大災害となりました。

この大災害は日本中の関心事となり、大阪毎日新聞では、地震発生6 日後の6月21 日の誌面で三陸地震津波についての解説を大きく載せています(図1)。

図1 大阪毎日新聞(明治29年(1896年)6月21 日) 
図1 大阪毎日新聞(明治29年(1896年)6月21 日) 

 その中で、過去日本で発生した津波について詳しく特集し、嘉永7年11月5日(1854年12月23日)に起こった安政南海地震に際し、土地の豪農浜口儀兵衛(梧陵)が、暗闇の中を逃げ惑う村人を助けるため、機転をきかせて積んであった稲村に火を附けさせた話が載っています。

 村民はこの火を目的に駆け出して生命を助かったという話です(図2)。

図2 図1の記事の一部
図2 図1の記事の一部

 4 ケ月ほど前に日本国籍をとった神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲記者が、この記事を読んで感激し、明治三陸沖地震津波の惨状と浜口儀兵衛の話などを組み合わせて「A Living God(生き神様)」を書いています。

 小泉八雲は松江師範学校(現在の島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしていました。

 日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A Living God」は、全国の師範学校での英語授業に使われます。

 和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、和歌山師範学校時代に読んだ「A Living God」が地元の偉人の話であることに感動し、子供向けの物語を作り、文部省の教材募集に応募しています。

 これが「稲むらの火」で、昭和12年(1937年)から約10年間、全国の尋常小学校では中井の作品を使って防災教育が行われました。

 このため、「地震・津波・高いところ」という考えが多くの日本人に浸透していました。

 筆者が中学2年生だった昭和39年(1964年)6月16日、新潟地震による津波を新潟で経験しましたが、このことを実感しています。

 激しい揺れの直後は校庭に避難したのですが、先生は「津波の可能性があるので高い所へ」と言い、全員が校舎の屋上に移動しました。

 学校周辺に住んでいる人も次々に屋上に避難してきましたし、小高くなっている国鉄の線路上など高い所に多くに人が素早く避難しています。

 津波は、筆者がいた中学校の1階の天井付近まで達した一部始終を見ていましたが、大人が口々に「稲むらの火」の話をしていたのが記憶に残っています。

 「稲むらの火」を使った防災教育は、太平洋戦争の終戦によって戦前の教育が否定されると同時に終わってしまいましたが、新潟地震の発生時点では、「稲むらの火」を知っている人が多数派でした。

 しかし、東日本大震災が発生したときは、多くの人が戦後生まれで、「稲むらの火」を知っている人は少数派でした。

 そして、新潟地震による津波が新潟市という県庁所在地を襲い、新潟空港は津波を被って使えなくなり、信濃川を遡って内陸部まで達したことを知らずに、「近年は発生していない津波被害」という言葉が溢れました。

 避難しなければ死亡するほどの大きな津波が襲ったのですが、新潟地震による津波の犠牲者はいませんでした。

 東日本地震が発生した時、「地震・津波・高いところ」という考えで行動したという人が多かったら、もっと助かった人が多かったのではないかと感じました。

 明治三陸地震の伝承も、ほとんどは100年も伝わらなかったのですが、筆者のように津波襲来を見ている人が少なからずおり、各種メディアによって多くの資料が残されている約50年前の新潟地震さえ、伝わっていないのが現状だったのです。

和歌山と南海地震

「稲むらの火」は、主人公を老人にしている点や、地震の描写が実話とは違っている点がいくつかあります

 第一、地震の描写は、和歌山を襲った南海地震ではなく、三陸沖地震のものです。

 浜口儀兵衛は、紀州広村(現在の広川町)出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。

 広村で安政南海地震の激震に遭遇した浜口は、若者をつれて稲むらに火をつけてまわり、暗闇の中を逃げ回っている人が高台へ逃げるための目印にしました。

 その後、浜口は、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。

 4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、貸金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます(図3)。

図3 広村堤防概略図
図3 広村堤防概略図

 浜口の作った堤防には松林が作られ、その松林の内側にロウソクの材料ともなるハゼの木が植えられています。

 ハゼの木を切って売り、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えた計画です。

 安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日に昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口の作った堤防は、村の居住地区の部分を守っています。

 広村(広川町)では、全国的に珍しい「津波祭り」を長年にわたって開催しています。

 津波の犠牲者を悼み、浜口儀兵衛などの先人の防災活動に感謝し、堤防補修作業をしますが、祭りという楽しみを入れることで、防災の気持ちを長続きさせています。

 それが、昭和南海地震のときに役立ったということを、地震学者で気象庁の地震火山部長や政府の地震調査委員会委員長などを歴任した津村建四朗さんから直接聞いたことがあります。

 広村出身の津村健四朗さんは、子供の頃に昭和南海地震を経験し、津波が押し寄せる中、日ごろ言われている通りに高台まで逃げたとのことでした。

 多くの人が亡くなっているのに、祭りの要素を入れることに対しての批判や割り切れないことが多いと思います。

 しかし、自分の一生より長い期間にわたって教訓を残し、少しでも後世の犠牲者を減らすことに貢献するということであるなら、せめてもの鎮魂になるのではないでしょうか。

 南海地震がいつ発生するかはわかりませんが、もし発生した場合には、安政南海地震の教訓が昭和南海地震で生きたように、広川町では昭和南海地震の教訓が生きると思います。

 ただ、この教訓を長く残す試みが、広川町だけのものではいけないと思います。

 全国で、その土地にあった工夫で1000年までとは言わなくても、100年先までは残す必要があると思います。

 このとき、少ないとはいえ、100年先まで教訓を残している実例が参考になります。

 手始めに、お孫さんに世代に「この話は大きくなって孫ができたら話して欲しい」と言って災害のときの話をしてみませんか。

 そのお孫さん世代が、「そういえば祖父母がこんな話をしていた」と、自分の孫世代に話を伝えてくれれば、100年先まで話が伝わることになります。

図1、図2の出典:大阪毎日新聞(明治29年(1896年)6月21 日)。

図3の出典:著者作成。