「津波防災の日(11月5日)」と「稲むらの火」の真実

明治29年6月21日の大阪毎日新聞の一部

平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波により多くの人の命が失われました。このとき、もし皆が、より高い所へ逃げていれば、もっと数多くの命が助かったのではないかという思いが、多くの人の心に残ります。

津波防災の日

平成23年6月に成立した津波対策推進法により、国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、11月5日が「津波防災の日」となりました。

これは、安政南海地震で津波が紀伊半島から九州を襲った日、旧暦の11月5日に由来します。

この法律のもととなった法案は、一年前から検討されていたもので、野党の自民・公明両党が衆議院災害対策特別委員会に提案したものです。与党の民主党が難色をしめし、なかなか審議入りできませんでしたが、東日本大震災で事情が一変し、与野党合意で新法案が成立しました。

国語読本に載った「稲むらの火」

昭和12年10月から約10年間、全国の尋常小学校では、「国語読本(5学年用)」に載った「稲むらの火」を使って防災教育が行われています。

この、「稲むらの火」ができたのは、明治三陸地震津波がきっかけです。

明治29年(1863年)6月15日に発生した明治三陸地震により死者が2万2000名を超えるという大災害は日本中の関心事となり、大阪毎日新聞は6月21日に三陸地震津波についての解説を大きく載せています。

図1 明治三陸地震津波についての新聞記事の稲村の火の記事
図1 明治三陸地震津波についての新聞記事の稲村の火の記事

その中で、過去日本で発生した津波について詳しく特集し、嘉永7年11月5日(1854年12月23日)に起こった安政南海地震に際し、土地の豪農浜口儀兵衛(梧陵)が機転をきかし、稲村に火を附けさせたので全村これを目的に駆け出して生命を助かったという話があります。ここでいう稲村は、刈り取った稲を積み上げた「稲むら」のことです。

小泉八雲の「A Living God」がもとになっている

神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記者は、稲村の火の話に感激し、明治三陸沖地震津波の惨状と浜口儀兵衛の話などを組み合わせて「A Living God(生き神様)」を書いています。

その書き出しは、私たちの信じる神様と違って、日本には多くの神様がおり、その中には、生きている人が神様になっているというものです。

小泉八雲は松江師範学校(現島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしており、4ヶ月前に帰化したばかりでした。

日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A Living God」は、師範学校での英語授業に使われます。

和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、教師を養成する和歌山師範学校時代の授業でこれを学び、「地元にこのような偉人がいたのか」という強い衝撃を受け、「A Living God」をもとに、小学生にもわかりやすい話を作り、文部省の教材募集に応募したのが「燃ゆる稲むら(津波美談)」です。

そして、採用され、実際に使われた教科書では「稲むらの火」と改題されました。

地震・津波・高いところ

全国の尋常小学校で使われた「稲むらの火」によって、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」という考えが多くの日本人に浸透し、その後、多くの人を津波被害から救いました。

私が中学生のとき、新潟地震(昭和39年)を経験し、校舎の屋上から、一階の天井付近にまで達する津波の襲来の一部始終を見ています。このとき、大人たちは、「地震が起きたら高い所へ」と口々に言って行動していました。今になって思えば、新潟地震による津波で死者がでなかったのは、大人たちが子供の頃に学んだ「稲むらの火」が生きたからではないかと思っています。

ただ、戦後になり、戦前の教育は軍国主義を助長するということで否定され、その結果、「稲むらの火」の話を知る人がどんどん少なくなっています。

「稲むらの火」は、主人公を老人にしている点や地震の描写が実話とは違っている点がいくつかあります(表)。

表 実話と「稲むらの火」との違い
表 実話と「稲むらの火」との違い

モデルとなった浜口儀兵衛は、紀州広村出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。

正月をすごすために広村へ戻り、そこで安政南海地震に遭遇し、若者をつれて稲むらに火をつけてまわり、暗闇の中を逃げ回っている人が高台へ逃げるための目印にしています。

広村堤防の建設

写真 広村堤防
写真 広村堤防

「稲むらの火」には後日談があります。

浜口儀兵衛は、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。

4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。

浜口の作った堤防には松林の内側にロウソクの材料など、現金になるハゼの木が植えられ、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えていました。

図2 広村堤防の概略図
図2 広村堤防の概略図

昭和南海地震

安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日、昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。

浜口儀兵衛は、嘉永7年に神様と思われただけではなく、昭和21年にも神様のような働きをしたのです。

図表の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災 日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。