2021年は、映画界で女性が大躍進した年だった。

4月、アカデミー賞ではクロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』が作品賞と監督賞をダブル受賞。5月、カンヌ映画祭では最高賞のパルム・ドールにジュリア・デュクルノー監督の『チタン』が輝いた。さらに9月、ベネチア映画祭では最高賞の金獅子賞をオードレイ・ディバン監督の『ハプニング』が受賞した。そして、同じ9月、サン・セバスティアン映画祭の最高賞、金の貝賞はアリナ・グリゴレ監督の『ブルー・ムーン』に与えられた。これで、2月のベルリン映画祭の金熊賞以外は女性監督の作品に総なめされたことになる。

これだけなら、“まあ、そういう年もあるのかな”となるが、それぞれ93回の歴史で2度目(アカデミー賞)、74回で2度目(カンヌ)、78回で6度目(ベネチア)、69回で5度目(サン・セバスティアン)の、めったにない女性監督の受賞が1年にこれだけ重なったのは、やはり大躍進としか言いようがない。

■女性監督ブームなんてあってはならない

サン・セバスティアン映画祭の金の貝賞、アリナ・グリゴレ監督の『ブルー・ムーン』の主人公
サン・セバスティアン映画祭の金の貝賞、アリナ・グリゴレ監督の『ブルー・ムーン』の主人公

もっとも、“女性監督ブーム”なんてものは、本来あってはならないものだ。

というのも、それぞれの受賞は、“女性監督だから”ではなく、“最も価値の高い作品の監督がたまたま女性だった”に過ぎなかったはずだからだ。

男と女の区別をすることは過去のものになろうとしている。

今年からサン・セバスティアン映画祭でも女優賞、男優賞が廃止され「俳優賞」に一本化された。授章の機会が減ったのは単純に映画界にとってマイナスではないか、とは個人的には思うものの、男女平等なので同じ舞台で競わせたいとか、演技で男女の区別をするのはナンセンスというのは、理屈としてはわからないではない。

とはいえ、確率論的には非常に難しい出来事が起こったとのは事実で、“偶然ではなく、何かが起こっているのでは”と考えるのもまた自然なことだ。

■勘繰られた平凡な(失礼!)受賞作

サン・セバスティアンでは『ブルー・ムーン』の受賞は驚きとともに受け取られた。ジャーナリストの間では人気作ではなかったのだ。

ルーマニアの村に住む女子高校生が、男が支配する生活(家族、社会)の束縛から逃れ首都ブカレストに自由を求める、というストーリーはあまりにありふれたものに思えた。

「女性には高等教育は必要ない」という家族VS新世代の女性というのは、よくある構図
「女性には高等教育は必要ない」という家族VS新世代の女性というのは、よくある構図

マチスモ(男性優位主義者)の国スペインでは、男女平等へのアピールが日常的に見られる。それはもちろん良いことだが、『ブルー・ムーン』には受賞作に期待されるオリジナリティとか新しい視点、といったものに欠け、“よくある話”に終わっていた。

よくある話でも社会的には悪いことは悪いわけだが、映画としては平凡だった――たまたま昨日見た『カオス・ウォーキング』の男女の問題の扱い方は新鮮だった――。

■批判した者、審査員の性別は?

人気作が受賞作となるわけではない、というのはそれこそよくある話なのだが、『ブルー・ムーン』の場合は、テーマと主人公、監督の性別が問題視され、“フェミニズムの時流に乗った受賞”という見方をされていた。

加えて、サン・セバスティアンでは重要な7つの賞のうち6つを女性が独占、選んだ審査員の5人のうち4人は女性だった、ということもあった。否、フェミニズムブームなんて失礼な見方をするジャーナリストたちこそ、男性ばかりだったのかもしれない。

男女平等だから監督の性別を伏せて選考、審査員も男女半々なんて日が来るかも
男女平等だから監督の性別を伏せて選考、審査員も男女半々なんて日が来るかも

男女平等を語るほど、性によるバイアスを語ってしまう。女性監督たちの連続受賞は大いなる偶然だったはずなのだが……。

※『ノマドランド』についてはここに書いた。

映画『ノマドランド』で「詩的な気分」に浸り、原作を読んで「厳しい現実」を知る

※『チタン』についてはここに書いた。

映画『チタン』。こんな作品に予算が付き、賞を獲り、商業的成功も…なら世界は健全

※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。

ポスター。羽ばたこうとする者の羽を切るの図。そのシンプルさが欠点
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