「愛の誕生についての物語」

と、ジュリア・デュクルノー監督は『チタン』を評している。「人生に愛とヒューマニティをもたらすには、嘘だって役に立つ」とも(いずれもスペイン語版プレスブックより)。

まあ、煮詰めに煮詰め蒸留してエッセンスだけを抜き出せば、そうなるのかもしれない。

だが、なかなかその境地へは辿り着けない。

車、ダンサー、性、血、暴力、犯罪、失踪、親子、筋肉増強剤、消防団、炎、そして「曖昧な女らしさ」(デュクルノー監督)と明確で類型的な男らしさ――など素材は山盛りで、いくつかの物語上の疑問は解説されないまま終わるので、迷子になっても不思議ではない。

『チタン』の1シーン
『チタン』の1シーン

■前作『RAW』の明快さとは対照的

想えば、同監督の前作『RAW~少女のめざめ~』はシンプルだった。全体に、女から男への復讐という筋が一本通っていた。

性欲の目覚め=食欲の目覚めとし、女が男を食べ続ける。その食前の準備、少女から女になる通過儀礼として酷い苦痛を伴う「脱毛」が描かれていた。

フェミニズムの活動の中には脱毛を拒否するものもあるくらいで、あのシーンから「女性に脱毛を強いる憎むべき男性社会」という文脈を導くことは難しくなかった。よって、 “女性の復権というかフェミニズムをテーマとする監督なのかな”と勝手に思い込んでいた。

『チタン』の1シーン
『チタン』の1シーン

■多分、型を確信的に壊す人

が、彼女はそんなシンプルではなさそうだ。

『エル・パイス』紙のインタビューを読んだ。

驚かされたのはその記事に添えられた彼女の写真だった。まるでモデルのようにメイキャップ、ヘアメイクをばっちりして、多分スタイリストが選んだ衣装でポーズまで決めている。

普通、フェミニストの監督はこういう写真を嫌う。例えば、『ノマドランド』のクロエ・ジャオ監督は、公の場でもほとんどノーメイクであることで知られている。(男性に)望まれる女性像に居心地の悪さを感じているからだろう。

一方、デュクルノー監督にはそんなためらいは感じられない。

『チタン』を見て、インタビューを読んで感じたのは、“型にははまらない人”だということ。自分のやりたいことや自分らしさが何よりも優先し、周りは二の次。良い意味でも悪い意味でも作家である。

“意図せず型からはみ出してしまう天然の人”なのか、“型にはめられたらそれをぶち壊したくなる確信犯”なのかと聞かれれば、後者という印象を受けた。

ジュリア・デュクルノー監督。映画祭提供のポートレート
ジュリア・デュクルノー監督。映画祭提供のポートレート

■「モンスター」は褒め言葉だと

インタビューから印象的な言葉を抜いてみたい。

「私の作品では、女らしさも男らしさも普通の人が期待しているようなところにはない」

「私はハイブリッドを信じている。すべての突然変異は力強い。私はトランスヒューマニズム(人間と技術の融合した結果による超人間主義)を恐れてはいない」

大好きな言葉は「モンスターだ」として、「モンスターは後ろ指を指される存在。私も何度も自分をモンスターだと感じたことがある。私のような映画を作る女性は、特にそう呼ばれる」と屈託がない。

『チタン』についてはいろんな人がいろいろな感想を述べている。絶賛の声もその正反対もある。物語は複雑で一筋縄ではいかず、極端な暴力と異端の性描写もある。

主人公の頭の中にはチタンが埋め込まれているが、それでお話が納得できるわけではない
主人公の頭の中にはチタンが埋め込まれているが、それでお話が納得できるわけではない

そんな中で一つ言えるのは、デュクルノー監督の一般には理解が難しい脚本に予算が付き、モンスターじみた彼女の情念と嗜好が詰め込まれた作品が撮れ、それを最高作品賞で称えるカンヌという映画祭があって、受賞の話題性で商業的にも成功するかもしれない世界、というのは「健全」であることだ。

「わけわからん」という人も「目を背けたくなった」という人もいるだろう。だがそれでも、理解不能なものや不快なものが、あらかじめ排除されている世界よりはずっと良い、と思うのだ。

※『チタン』の予告編はこちら。

同監督の前作『RAW』についてはここに書いた。

※写真はサン・セバスティアン映画祭提供。

『チタン』の1シーン
『チタン』の1シーン