ハビエル・バルデムはうまい。どんな役でも説得力があり、嘘(=演技)に見えない。

サイコパス(『ノーカントリー』)、ヘロイン中毒者(『時間切れの愛』)、スペインの典型的マッチョ(『ハモンハモン』、『ゴールデン・ボールズ』)、尊厳死活動家(『海を飛ぶ夢』)、貧しい移民(『BIUTIFUL ビューティフル』)、もてもてチャラ男(『それでも恋するバルセロナ』)、エゴの塊の芸術家(『マザー!』。日本未公開が惜しまれる)、失業者(『月曜日にひなたぼっこ』)、アトレティコ・マドリーファンの車椅子の刑事(『ライブ・フレッシュ』)……。

いわゆる“はまり役”というのはない。そもそも、はめる型というのがないのだから。ハンサムでないのも良い。美形と演技のうまさを混同する風潮と一線を画せるから。

ワンマンで周りはイエスマンだけ。経営手腕があるから周りが馬鹿に見える
ワンマンで周りはイエスマンだけ。経営手腕があるから周りが馬鹿に見える

■善と邪が入り混じった薄笑い

『素晴らしきパトロン』では中小企業のオーナー経営者を演じている。

「成功した経営者」という立派な看板の裏から、部下を切り捨てたりすぐに手を出したりという、下衆の部分がチョロリと覗く。紳士的で人当たりが良くにこやかだが、目が笑っていない。浮かんでいるのは、邪さを隠し切れない薄笑いである。

善人と悪人という二重性を善人の顔と悪人の顔で演じ分けるのは簡単だが、彼は善の笑顔の中に悪を滲ませている。「演じ分け」ではなくて「共存」である。

いやらしく高級ワインをすすり、従業員に親身なアドバイスをしつつ、視線は泳いでいる。泳ぐ視線が偽善を告発している。表情でこれだけのことを表現する。うまいなあ、の一言だ。

■「ボス」では会社の私物感が出ない

ところで、『素晴らしきパトロン』というのは私が勝手に付けた邦題。英語のタイトルは『The Good Boss』だが、これだと「私物感」が伝わらない。

「ボス」だと単なる上司、雇われ社長と混同される恐れがある。金を出した「パトロン」でありオーナー社長だからこそ、会計的にも心情的にも会社とプライベートの区別は曖昧、というニュアンスが出て来る。

要は、パトロンである主人公にとって会社は私物、従業員は自分の下僕なのだ。

「社員は家族」と口にする人の良さそうな社長を安易に信用してはいけない。従業員であるあなたは子供であって一生、親にはなれない。半人前の子供は一人前の親には従うべき、というルールを押し付けているに過ぎないことがあるからだ。

バルデム演じるパトロンの、一見大らかで優しく包み込むような家族愛が、どこへ向かうのかは見てのお楽しみだ。

家庭でも良いオヤジを演じている。既視感ある夫婦像
家庭でも良いオヤジを演じている。既視感ある夫婦像

■性的描写の必然性について

スペインでは新人女優のアルムデナ・アモールが注目されている。

彼女の演技を見て、改めて日本との文化の違いを感じさせられた。こちらでは性的描写のハードルが低いのだ。物語の必然性としてはなくてもいいシーン、見ている方に想像させるだけでいいシーンも、映像としてはっきり見せる。

見せることで彼女の性格がわかるし、後の言葉のギャグが生きてくる、というのもあるのだが、日本や他のアジアの娯楽作なら回避しているところだ。

アルムデナ・アモール。こちらも日本で公開されそうなホラー『祖母』では主役に抜擢された
アルムデナ・アモール。こちらも日本で公開されそうなホラー『祖母』では主役に抜擢された

バルデムの出世作『ハモンハモン』で共演した女優ペネロペ・クルスは彼の妻でもあるのだが、まだ10代だった彼女はあのデビュー作でいわゆる“体当たりの演技”をしている。

それによって、スペインの明るいだけではない、あっけらかんとしつつも、情愛の熱量で粘っこく退廃的になった物語の空気感を出すことに貢献していた。映像化を回避する製作者や女優であったなら絶対に出せなかったはずである。

上で紹介したハビエル・バルデムの出演作はすべておススメ。『素晴らしきパトロン』とともにぜひ楽しんでほしい。

『マザー!』についてはここに書いた。

※写真の提供はサン・セバスティアン映画祭。映画写真のクレジットは C:Fernando Marrero

ポスター。全従業員より自分の方が重い、というのがすべて
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