「パーフェクト」

『白鳥の湖』を踊り切ったニナの最後のセリフがそれだった。ダーレン・アロノフスキー監督の前作『ブラック・スワン』の主人公ニナは未熟な自分を自虐し、挫折した芸術家である母親を憎悪し、ライバルを蹴落とし、心の病を患った末に、ついに絶賛される完璧な演技を手に入れた。“芸術のためには死んでもいい”、そんな狂気、常人に理解できない強烈なエネルギーが、芸術家を芸術家たらしめているのだ。

「ああ芸術家でなくて良かった」

それが『ブラック・スワン』を見終わった後の感想だったが、『マザー!』でも同じだ。

文章を書くことをアーティスティックな行為だと誤解している者もいるが、アーティスティストなのはこの作品でハビエル・バルデム演じる詩人や小説家だけ。つまり創造する者だけ。映画を作る人間はアーティストだが、他人が作った映画を批評する人間はアルチザン(職人)であり凡人。狂気の無い常識人である。それで良い。それで健全な世界が回っているのである。

詩を創る人と壁を塗る人という対比の妙

詩人のハビエル・バルデムの恋人ジェニファー・ローレンスは壁を塗る人であり、アンティークの家具を補修する人である。この壁を塗る設定は、職人とアーティストの対比として実にうまい。絵描きは芸術家だが、塗装するのは職人である。ジェニファーが守ろうとする2人だけの小さくて静かな平和は、詩作に外部からのインスピレーションを必要にするハビエルに容赦なく叩き潰される。美人で若く未熟な常識人が、恋人の芸術家の業、エゴ、狂気に翻弄され破壊されていく――。『マザー!』はそんな物語だ。

詩人の綴る言葉はあまりにも美しく、恋人は涙を流す。だが、そんな愛を語る詩人が、恋人への情愛の欠片すらない残酷な人間である。身勝手に繊細で身勝手に鈍感、この不条理さ不思議さに普通の若い女の子は魅かれる。

しかし芸術家を愛してはいけない。これは同じサン・セバスティアン映画祭で見た『ライオンは今夜死ぬ』(諏訪敦彦監督)でも引っ掛かったテーマである(この作品についてはまた別の機会に)。

フォロワーという醜く主体性のない集団

『ブラック・スワン』と違って、求道するアーティストの姿は描かれていないが、芸術に心酔する人間、芸術家を偶像化する大衆は出て来る。醜く主体性のない人間集団としての描かれようは、テロや戦争、集団心理によるパニック、カルトなどの現代の病の源はここにある、と言いたげだ。芸術家にも狂気があり、大衆にも狂気がある。救いがなく出口がない。

この作品は一部で酷評されているようだが、それは健全な常識人が多い証拠でもあり喜ばしい。と同時に、非常識を見せるというのは芸術の役割なのであり、それをダーレン・アロノフスキーという芸術家の作品は完璧にやり遂げているのだから、賛否両論も当然なのだ。

心をかき乱されたい、常識だけでは面白くない、なんて口癖の常識人にぜひ見てほしい。

※この文章は2018年1月の日本公開に合わせて公開する予定でしたが、公開中止ということで急きょアップします。万人向けでない作品であることは上に書いた通り。スペインでもヒットはしなかった。ただ、物語的にも映像的にも中止にする理由はまったく見当たりません。残念。