「今は弱音を吐くこともできる」元日本テレビアナウンサー・上重聡、十字架を背負った4年間 #今つらいあなたへ
PL学園高校時代に甲子園で“怪物”松坂大輔(横浜高校)と投げ合い、立教大学では主将を務めた。その後、日本テレビのアナウンサーになり21年間勤めたあと、2024年4月からフリーに転身した上重聡はずっと、日の当たる場所を歩いてきたように見える。しかし、実際には口に出せない悩みを抱えた時期があった。アスリートとして致命的な“病”をどうやって乗り越えたのか──。(取材・文:元永知宏/撮影:近藤俊哉/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
明暗が分かれた「延長17回」の1年後
プロ野球で数々のタイトルを獲得した名選手たちが「1億円もらっても戻りたくない」と振り返るほど過酷なPL学園野球部で、3年間を過ごした上重。 1998年夏には背番号1を背負い、松坂大輔率いる横浜と延長17回の激闘を演じた。心・技・体そろった選手でなければ、満員の大観衆が見つめる甲子園で力を発揮できない。 “強者のメンタリティー”を持っていたはずの上重の心が揺れたのは立教大学に進学してからだ。上重が言う。 「1年生の春から活躍するのが当たり前。大学4年間で20勝くらいはできるだろうと考えていました。卒業するときにドラフト1位でプロ野球へ進む自分の姿をイメージしていました」 しかし、野球エリートが集まる東京六大学リーグの戦いは厳しい。 「春は5試合投げて経験を積むことができましたが、秋はマウンドに上がることができませんでした。当時の立教には甲子園経験者が少なくて、私は期待されていると感じていましたが、ふがいない成績でした。『あいつ、何をやっているんだ!』と思われているんじゃないかと、勝手に自分で自分を追い詰めていった感じでしたね。『松坂みたいにすごい姿を見せないといけないのに』と」 高校時代に甲子園で投げ合った松坂は、1998年ドラフト1位で西武ライオンズに入団。新人にもかかわらず、150キロを超えるストレートとスライダーで猛者たちをぶった切っていく。プロ1年目に16勝を挙げる大活躍を見せた。 「その年の秋、立教は9年ぶりのリーグ優勝を飾りました。私は代打で1試合に出場しただけだったので優勝パレードでオープンカーに乗ることはできませんでした」