「今は弱音を吐くこともできる」元日本テレビアナウンサー・上重聡、十字架を背負った4年間 #今つらいあなたへ
投手クビ、悩みを抱えた大学生活
大学生活はまだ3年もある。巻き返すのはこれからだ。しかし、ここで異常事態が起こってしまった。 「あれっ、俺はどうやってボールを投げていたんだろう」 それまで自然にできていたはずの投球動作に不具合が発生した。ゴルファーやプロ野球選手が悩まされる“イップス”だった。 2000年春のリーグ戦前のオープン戦で、上重は先発登板の機会を与えられた。監督に課されたのは「どれだけ打たれても9回を投げ切ること」だったが、大量失点を喫してしまう。 「13点も取られたのは初めての経験でした。『何やってんだ。何やってんだ』とマウンドで思いながら投げているうちに、バッターの頭にぶつけて……イップスは心が弱い人がなるものだという思い込みもあって、自分は大丈夫だと思っていたのですが、投げることが怖くなってしまいました。目をつぶっていてもストライクゾーンに投げられるはずなのに」 このとき、荒療治を施したのが斎藤章児監督だった。 「『ピッチャーはクビだ』と言われ、外野にコンバートされました。私は必死でやっていたんですけど、試合の記事を見た松坂には『外野で遊んでるんじゃないよ』と言われましたね」 投げることで自分の居場所を獲得してきた上重は、「もうマウンドに上がらなくていい」と安堵していた。 「チームに貢献するためには、外野手として打撃を頑張るしかない。PL学園で背番号1をつけたプライドを捨てて、外野から野球を勉強し直しました」
父親の言葉に涙を流した日
どん底の上重を、精神面で支えてくれたのが両親の言葉だった。 「春季リーグ戦の開幕戦に上京してきた両親に初めて『野球をやめたい』と言いました。もうピッチャーとしてはやっていけそうにないし、イップスが治るという保証がなかったから」 父親からは意外な言葉が返ってきた。 「おまえがエースじゃなきゃいけないとは思っていない。補欠でも4年間楽しく野球をしてくれればいいよ」 それを聞いた上重は涙を流した。 「初めて自分の弱い部分を見せられたことによって、気持ちがものすごく楽になりました。もう一度頑張って、親を笑顔にさせてやろうと思いました」 その頃、同じ“松坂世代”である和田毅(現・福岡ソフトバンクホークス)は早稲田大学で先発投手を任されていた。 「和田のストレートは140キロなのに、まったく当たらない。私は松坂の豪速球に追いつこうとしていましたが、ピッチャーの目的は0点で抑えることで、速い球を投げることじゃないと気づかされました」 そんな変化を見ていた斎藤監督はそっと救いの手を差し伸べた。 「監督に『今日はブルペンで3球だけ投げろ』と言われました。おかげで、『明日はもっと投げたい』と思えた。私の心を前向きにしてくださいました。少しずつ投球練習を増やしていって、マウンドに上がれるようになりました、投げるのは本当に楽しかった」