津波から助かった大川小の哲也さん(22) 11年間の苦悩と、母校や妹への思い #知り続ける
だがその思いとは裏腹に、遺族や住民らによる協議会では「見るのがつらい」と解体を望む声が多かった。2015年3月、意を決した哲也さんは他の5人の同校卒業生と協議会に参加し、120人の前で「校舎を壊さないでほしい」と訴えた。多くの同級生や妹、弟を失った卒業生6人からの悲痛な訴えに、会場では涙ぐむ参加者の姿もあった。 これで流れは変わり、投票の結果、「校舎をすべて残す」案が57人と最多を占め、「解体後、跡地に平面図を復元する」案の37人、「その他」15人などを上回った。翌年、被災校舎を現状のまま保存することが正式決定した。 哲也さんは、そのときのことをこう振り返る。 「会場がアウェーだったなかで、自分の思いを伝えられて、人に届けることができた。認識を変えることができた。今思うとすごいことだなと思います」
語り部として活動
高校では中学に続き柔道部に入部し、練習に打ち込んだ。2年生で主将になり、県内有数の強豪チームへと成長させた。3年生で部活を引退した後、児童遺族の佐藤敏郎さんから父・英昭さんも参加する「大川伝承の会」に誘われ、語り部を手伝うようになった。 「自分たちがどういう思いで被災校舎の保存を訴えたのか、子どもたちがどういう気持ちで津波にのまれ、悔しい、悲しいって亡くなっていったのかを知ってほしい」。当時、参加した理由について哲也さんはこう語っていた。 被災校舎の前で親のような世代から高校生、中学生まで、当時の避難方法や校舎が皆の思い出の場所であることなどを伝えた。そのころ、哲也さんは警察官になるという目標ももっていた。震災時、救出作業をする姿が鮮明に残っていて、人の役に立つ仕事がしたいと思ったからだ。
大学は周囲の勧めもあり、県内の私立大学機械工学科にAO入試を経て、入学した。だが、最初のレクリエーションで会った友人に「警察官になりたいのなら、何でここに来たの?」と言われ、様々な人と関わるうちに自分の意志について考え始める。 「大学1年のときから、何でここに来たのか、ずっとモヤモヤしていました。大学に行くということが、そもそも自分の決断だったのか、周りの促しだったのか。はっきりわからないでずっといたような気がするんです」 一方、講演活動は続け、東京や埼玉で開かれた防災イベントで被災体験を語り、防災の重要性を訴えた。だが、自分が中傷されていると人づてに聞こえてきて、哲也さんの心は傷ついた。警察官になりたいという夢も何か違うと感じていた。結局、2年で大学を中退した。