津波から助かった大川小の哲也さん(22) 11年間の苦悩と、母校や妹への思い #知り続ける
地震発生から約50分後、教師と児童が近くの新北上大橋のたもとへ避難を始める。だが、川を遡上してきた津波に襲われた。 哲也さんは慌てて来た道を引き返し、裏山へ駆け登る途中、津波にのみこまれて意識を失った。しばらくして、山腹に埋まっているところをクラスメートに助け出された。一方、児童78人中74人、教職員11人中10人が命を落とす大惨事となった。 哲也さんの小学3年生の妹も、一緒に橋のたもとに向かうなかで亡くなった。母と祖父も遺体で見つかった。3月11日は母の誕生日で、夜に妹と哲也さんでお祝いをする予定だった。
震災から約1週間後、哲也さんが避難所となった市の総合センターにいたとき、メディアの取材を受けた。混乱するなか、取材の意味も分からず、津波に襲われたことや助けられた体験を話すと、「奇跡の子」と大きく報道された。その後、同様の報道が続いたが、哲也さんはこの表現に違和感をもっていたという。 「亡くなったおじいちゃんは漁師で、日ごろから“津波が来たら山さ逃げろ”と教えてくれていた。(勝手な行動ができない)縛りがあったけど、極限状態で縛りがなくなったから、その意識が自分を山に向けたのかなって。奇跡と言われるけど、偶然そうなったわけではないです」
被災校舎の保存か解体か
仲の良かった6人家族から、父・英昭さん、祖母・アキ子さんの3人家族になった。自宅は流されたため、内陸の父の社宅にしばらく住むことに。春は桜が咲き、シジミやウナギが取れた北上川ののどかな風景も一変してしまった。 思い入れが少なかったからか、哲也さんは中学時代のことをあまり覚えていないという。ただしこの頃、大人たちの前でマイクを握り、必死に思いを伝えていた。 津波で大きな被害を受けた大川小学校の校舎は、保存か解体かで遺族、地域住民の間でも意見が割れていた。哲也さんは「保存すべき」というスタンスで、2015年の取材時にこう語っていた。 「校舎がなくなって更地になったら、友だちがいたことも記憶も薄れて思い出せなくなる。みんなが生きてきた証しがないと、だんだん忘れられて、本当の意味で死んじゃうんじゃないか」