「理解に苦しむものはみんな化け物扱い」――闘い続ける“不死鳥”、美輪明宏の人生
「外は地獄だった」原爆の記憶
10歳の夏。1945年8月9日午前11時02分に投下された原爆の体験も、記憶に深く刻まれている。 「夏休みで、宿題の絵を描いていたんです。うちの窓が全部ガラス張りになっていましてね。自分の絵が張り出された時、遠くから見たらどう見えるかと、立ち上がって絵を置いて、後ろへ下がったんです。その時、マグネシウムを100万個ぐらい焚いたように、ぴかっと光った。『え? こんないい天気に雷?』と思った一瞬、世界中の音が全て止まったかのようにシーンとした。かと思うと、今度はドカーンと、もう世界中の音を一度に集めたような音がして、家がゆらゆらと揺れて傾いた。もし後ろに下がっていなかったら、私もケロイドのやけどを負っていたでしょう。 爆音の後は警戒警報と空襲警報。お布団の手入れをしていたお手伝いさんと2人で布団をかぶってとにかくじっとして、それから兄と3人で逃げました。外は地獄でしたよ。肉がただれているんでしょうか、馬車引きのおじさんが全身ケロイドみたいに真っ赤に焼けただれて、ぴょんぴょんと跳びはねている。馬は横になって死んでいて。それを横目で見ながらとにかく逃げて……まあたくさんの悲劇を見ました」
戦後間もなく、音楽教室でピアノと声楽を習い始めると、東京の音楽高等学校へ入学した。しかし家が破産して中退。新宿駅の地下道や構内での寝泊まりを経て、進駐軍のキャンプを回り、ジャズを歌って日銭を稼いだ。 そして、銀座七丁目のシャンソン喫茶「銀巴里」へと流れ着くと、シャンソンを和訳詞で歌った「メケ・メケ」のヒットで脚光を浴びた。1957年、丸山明宏(本名)、22歳の時だった。 「私も初めは普通の男性らしい格好で歌っていたんです。でも向こうの人(外国人)のファンがいろんな雑誌を持ってきてくれて。そこに写っていたジュリエット・グレコやジャンポール・サルトルのたまり場の様子が、フランスの文化人のアジトみたいで楽しかった。なかにはとんでもない格好の人や、男だか女だか分からないような格好をしている人もいて。パリにこういうたまり場があるのなら、私の愛する銀巴里もそうしたらどうだろうかと考えたのです。 じゃあ私はどういう格好をしようかと図書館で調べていたら、徳川綱吉の愛人でお側(そば)用人だった柳沢吉保という人が、“柳沢十六人衆”といって全国から集めた美少年に華美な服を着せて歌舞音曲を仕込んでいたことを知って。それを現代風にアレンジしようと、男でも女でもない格好を始めました。髪の毛を紫に染めて、紫ずくめで銀座を歩いていたら、「銀座に紫のお化けが出る」と有名になって。江戸川乱歩さん、三島由紀夫さん、川端康成さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さん、岡本太郎さんと錚々(そうそう)たる人たちがみえて、私のファンになってくださいました」