「理解に苦しむものはみんな化け物扱い」――闘い続ける“不死鳥”、美輪明宏の人生
幼少期に世の中の基本を悟った
世代によっては、スタジオジブリの『もののけ姫』『ハウルの動く城』の声優として美輪を知った読者も多いかもしれないが、“不死鳥”は多才で、数々のカルチャーにおけるパイオニアだ。 1950年代の東京で、フランスのシャンソンを和訳詞で歌い、セルフプロデュースによるユニセックスなビジュアルで一世を風靡すると、同性愛者であることを堂々と公言した。作詞・作曲を始めると「ヨイトマケの唄」が大ヒットし、日本のシンガー・ソングライターの草分けとなった。
「常に闘いの連続でした。私が日本のファッション革命というか、『男女の性別なんて関係ない』ということで有名になると、『女の腐ったのみたいだ 』とか、まあいろいろと非難されました。普通、そう言われたら自分を責めて、落ち込みますよね。でも、私は『じゃああんたは何なの? どんな才能があるの? いくら稼いでんの? 何者でもないくせに!』という返す言葉を持っていたので、決してひるみませんでした。 人間は、一人ひとりが違っていて当たり前でしょう。この世の中で、同じ種類のものがありますか? 動物も植物も何もかもそう。どうして人間だけが、『同じでなきゃいけない』という考え方をするんでしょう。傲慢ですよ。ヒトラーはゲルマン民族だけで地球を統一すべきと、600万人ものユダヤ人を殺しました。そういう自然の法則に逆らうことをしたから、自分もあんなひどい死に方をしたわけです。法則に反したから、罰が当たったんです。 そういう世の中の基本を、小さい時に悟りました。だから『変わっている』と言われても『変わっていて当たり前』だと思っていました。そういう基本を頭の中に入れておけば、少々のことでたじろがずに済むんです」 そうした基本や法則の原点は、繁華街で送った幼少期にある。美輪は1935年、長崎で生まれた。生家は料亭や風呂屋、カフェなどを営み、近くには遊郭があった。
「長崎には国際都市の歴史があります。私の生まれは昭和10(1935)年ですから、軍国主義になる以前で、いろんな国の人たちが雑居していました。うちのカフェというのはバーとキャバレーが一緒になったぐらいのスケールの水商売。ロシア革命から逃げてきたロシア人の娘さんをホステスとして雇っていたりしてね。国際的な男女の悲劇や喜劇を見てきました。ファッションもお国ぶりそれぞれで、人種差別なんてものもありませんでしたね。 お風呂屋さんで、立派な身なりの紳士はさぞかし立派な裸かと思っていたら、もう気の毒になるぐらい貧相な体をしていらしたり。その逆に、もう入ってきただけで臭う、何年も洗っていないような野良着の女性が裸になると、マイヨールの彫刻みたいな素晴らしい体だったりする。遊郭も、夏なんか窓も開けっ放しで色事を見せられて。 だから、『着るものなんて嘘っぱち。この裸のままが本当の人間だ』『容姿、容貌、年齢、性別、国籍。着ている物や持っている物、目に見えるものなんて見なさんな』となっていく。見えないものを見る。心や品性こそが重要なんだという意識が自然と芽生えました」 しかも、家の前にはおあつらえむきに楽器とレコード店まであった。 「クラシック、ジャズ、シャンソン、タンゴ、流行歌、童謡。ありとあらゆる音楽のレコードが聴けました。戦時中、軍歌以外は全部禁止になった悲しみも、そこから解放された時の喜びも知っています。私のレパートリーが広いのはそのせいです。しかもうちの隣が映画も上映する劇場でね。将来、『黒蜥蜴(くろとかげ)』(※江戸川乱歩の小説を三島由紀夫が戯曲化。美輪の代表作のひとつ)のような芝居をやるための下地を学べということだったのでしょうね。照明から、美術の大道具、小道具、衣装、メーキャップの仕方まで、舞台裏の仕事が全て頭に入りました」