無理に夢や希望を持つ必要はない、正解なんて出なくていい――恐山の禅僧が語る、「人生の重荷」との向き合い方 #今つらいあなたへ
前向きに考えよう、やりがいを持とう、という“ポジティブが善”の風潮が強まる中で、ネガティブな感情を言葉にできない若者が増えているという。悩める人々との対話を重ねてきた恐山の禅僧、南直哉(66)は、「20代、30代の人たちは特に、『対話』の能力が退化しつつある。ネガティブな感情を閉じ込め続けると、必ず心や体に支障をきたす」と警鐘を鳴らし、「人間はそもそもネガティブ。無理に夢や希望を持つ必要はない」と断言する。幼少期から、極限まで「死」と向き合ってきた僧が説く、心の重荷を軽くし、人生を取り戻す方法とは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
青森県下北半島の北部に位置する「恐山」。地獄を思わせる火山岩と、極楽のように澄んだカルデラ湖とが織りなす、独特の風景が広がっている。1000年以上昔から、人々はこの地で「あの世」に思いを馳せ、信仰してきた。「亡くなった人に会える場所」。夏に行われる「恐山大祭」には、イタコを名乗る女性たちが現れて、死者の言葉を伝える「口寄せ」を行うことで知られるが、近年は後継者が少なくなっているという。 2005年から恐山菩提寺で院代(住職代理)を務める禅僧、南直哉は、著述家としても活躍するが、その経歴は実にユニークだ。早稲田大学第一文学部で美術史を学び、大手百貨店に就職。2年勤めた後に出家、曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送った。 出家を決めた当時はバブル目前。日本中が浮かれ気分のなか、なぜキャリアを捨て、出家をしたのか。その理由を、「自分自身の抜き差しならない問題に取り組むため」だったと南は語る。
「これは業のようなものです。私は幼いころ小児喘息をこじらせて、何度も絶息状態に陥りました。それは凄まじい体験。苦しくて、目の前が真っ赤になるんです。子ども心にも、何度か『次は死ぬのかな』と思いました。そこから常に『死』について考えるようになった。死とは何か。死んだらどうなるのか。大人に聞いても、まともに答えてくれない。小学生のとき祖父の死に際し、その亡骸を見たときに、なんとなくわかったんです。死とは、自分一人のもの。自分の死以外は、存在しない。そうか、だから誰も答えられなかったのか、と」 死への問いは、やがて南を縛りつける呪いになっていく。 「どうせ死ぬのに、なんで生きているんだろう。普通なら大人になるにつれて忘れてしまうようなことをずっと問い続け、それが思考の中心。就職したって、一応まじめには働いていたんですけど、稼ぐための効率なんて考えられない。どんどんズレていくんです、ふつうのラインから。これ以上はもうダメだ、自死してしまうかもしれないとも思いました。最後の手段と博打を打つような気持ちで、出家を決めたんです」