リニア中央新幹線は大丈夫か? 政治化した巨大技術が国を傾ける
辺野古に海上空港は適切か
もうひとつ気になる問題は、沖縄県における辺野古の米軍基地の海上建設である。 ここでいいたいことは米軍基地が沖縄に集中しているという政治的問題ではなく、あくまで技術的な問題だ。沖縄の辺野古という場所において、基地としての空港をつくるのに、なぜ海上なのかという問題だ。案の定、地盤が悪く沈下が続き、適正地ではないことが明らかになっている。それでも政府は方針を変えられない。政治的に決められているからである。 羽田なら海上に桟橋式でつくることも理解できる。大阪や名古屋なら人工島もやむをえないだろう。しかし辺野古なら、しかも基地なら、陸上にすべきである。軍用の飛行場はあらゆる不測の事態に備える必要があってタフでなければならないし、いざというときの周辺地活用も要求される。この場所とこの用途に海上空港はそぐわないのだ。そして工事は大きく遅れ、普天間の危険は続いている。
政治化した巨大技術の「傾城プロジェクト」
こういったプロジェクトの推移は、1960~70年代に話題となった超音速機(SST、英仏ではフランス語のコンコルド)の開発競争を思い起こさせる。イギリスが協力したフランスとソビエトが鎬を削って、膨大な開発予算を注ぎ込んだが、難問が続出し、コンコルドはなんとか商業運行にこぎつけたものの長くはつづかず、結局は撤退した。 フランスという国は、航空機と原子力だけはアメリカに負けまいとする国是のような意志をもっている。ソビエトはもちろん冷戦の最中で、どうしてもアメリカに負けられない。どちらも大きすぎる政治的意志が、経営的技術的合理性を歪めたのだ。 大規模プロジェクトというものは、戦争に似て、ちょっとした条件の変化を鋭敏にキャッチし、衆議熟慮の結果、場合によっては撤退も辞さない軌道修正の英断を求められる。しかし国家がらみの政治案件となるとその修正ができないのだ。「傾城」とは、たとえば唐の楊貴妃のように、城(国)を傾けるほどの美女という意味だが、誰もがウットリと魅了される「傾城プロジェクト」というものがある。 秦の始皇帝も隋の煬帝も、万里の長城や大運河など、土木建設の過剰で国力を衰退させた。太平洋戦争における戦艦大和の建造も、日露戦争以来の大艦巨砲主義という海軍のレガシーが、刻々と変化する戦争技術の合理性を歪めてしまった結果だ。大和は、日本の多くの技術者が魂を込めてつくりあげた「時代の精華」で、これさえあれば負けることはないと思うほどの、みごとな戦艦であったが、ほとんど役に立たないうちに海の藻屑となったのだ。まさに「傾城」である。 東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故でも同様だ。安全に関するある委員会のメンバーだった友人は「屋上屋を重ねるような委員会の重厚さが、かえって現場の簡単な改善が進まない状況をつくっていた」と反省の弁を語った。 また政府は津波に襲われた沿岸部に高い防潮堤を築いたが、現地の人は海が見えなくなることに反対していた。ところどころに5階以上の鉄筋コンクリートの建築をつくれば、いざというときに高台まで走らなくても人命は守れるのだ。南海トラフ地震など、今後の地震にも備えて防潮堤をつくるのなら、日本国民はすべての海岸を壁で囲った箱の中に住まなくてはならない。こういった無駄ともいうべき工事は、津波で亡くなった人の多さに理性を失った政治家が、情緒的に莫大な予算をつけることによる。マスコミも、その情緒予算のあと押しをする。