「電子世間」から脱却できず「本物」になれない松本人志氏 テレビとSNSが表裏一体となった新しい世間の危険性
女性への性加害疑惑を週刊文春に報じられたお笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志氏。記事によって名誉を毀損されたとして、発行元の文芸春秋などに5億5000万円の損害賠償や訂正記事を求めた裁判の第1回口頭弁論が28日、東京地裁でありました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、この問題に関連して「テレビとSNSが表裏一体となった新しい世間としての『電子世間』」の危険性を指摘しています。若山氏が独自の視点で語ります。
テレビという一般性と共同性
松本人志氏の若い女性に対する性加害疑惑が問題になっている。少し前、ジャニー喜多川氏の所業が大問題になったときに僕は、むしろ責任はテレビ番組(特に地上波)の堕落にあると書いたが、松本氏の問題でもそれに近いことを感じる。 もともと芸能者というものは「河原者」とも呼ばれ、社会の良識をやや外れる、すなわち非日常の世界に生きるところに味があったのだ。(参照・篠田正浩・若山滋『アイドルはどこから-日本文化の深層をえぐる』現代書館2014刊) しかし現代のテレビ局は、視聴率を稼ぐため、報道番組のキャスターにまで、お笑い芸人やアイドルタレントを起用するようになっている。つまりテレビ放送の、放送法にも規定される公器としての側面と、娯楽的な芸能提供としての側面との境が曖昧になっているのだ。もし松本人志氏が、これほどテレビに露出して、日本社会の人気者を代表する人格であるかのような立場になければ、このような疑惑も起こらず、また起きたとしてもこれほどの問題にはならなかったのではないか。テレビというものがもつ「一般性と共同性の力」が、われわれの社会にとって、きわめて大きな存在になっていることを感じざるをえないのである。
テレビとSNSが表裏一体となって「新しい世間」をつくる
またここにはSNSが絡んでいる。松本人志氏のSNSでの発信が問題を拡大して、それに対する匿名のコメントなどが本人を追い詰める結果となったようだ。 僕はこれまでテレビの視聴者を「茶の間の大衆」とし、インターネットの受発信者を「個室の大衆」として、またスマホを「個室のモバイル化」として論じてきた。メディア論と建築論を絡めたかたちだが、文化的な意味で、メディアと建築は関係が深い。 家庭の茶の間には老若男女が集うので、その場における言論は誰にでも受け入れられるものでなくてはならず「タテマエ」になりがちである。僕も東海地方の朝のワイドショー番組のコメンテイターをしていたのだが、個性的、独創的な意見はディレクターに注意されて発言しにくい。逆にインターネット、特にSNSは、個室におけるパソコンあるいはモバイル個室としてのスマホをつうじているので、匿名性、個人性が高く、過激なほどに「ホンネ」が露呈する。 つまり「タテマエ」としてのテレビと、過激な「ホンネ」としてのSNSは、現代コミュニケーション社会の表裏として一体なのではないか。そしてそこに、これまでとは質の異なる「新しい世間」が姿を現しているように思える。気づきにくいことだが、実は現代日本では「世間」の力が非常に強くなっているのだ。そしてこの新しい世間は、家の外にあるのではなく、家の中に、それも個室というプライベートな空間に内在するのである。