追悼。高校サッカー界の”名将”小嶺忠敏氏が貫いたスパルタの信念と教え子に残した遺産…「監督が楽しんで体を張らないと」
「小嶺先生は僕を大学に行かせたい気持ちがあったみたいで、そこは噛み合わなかった部分がありました。将来的には自分のためになるかもしれないですけど」 こう振り返った安藤の熱意の前に最終的には折れた。しかし、小嶺さんはミーティングで部員全員へ向けて発言しているようで、実際には安藤を意識しながら「プロの世界は非常に厳しい。成功しなかったやつも大勢いる」と繰り返した。 このやり取りを聞いて、平山を思い出さずにはいられなかった。 全国選手権史上初となる2年連続得点王を獲得した平山に対しては、複数のJ1クラブが獲得に名乗りをあげていただけでなく、海外のクラブまでもが興味を示していた。しかし、2004年春の卒業後に選んだのは筑波大への進学だった。 当時のサッカー界を驚かせた決断を、小嶺さんは高木や三浦、大久保らの日本代表経験者と比べながら「筋力が弱い。まだ時間がかかる選手なので」と説明した。 突出した長所や個性を持っていると選手に理解させ、高校の3年間で武器へと昇華させる。すべてをハイレベルで満たした大久保はすぐにプロへ送り出したが、平山だけでなく高木や三浦もまず大学へ進んだ。教え子たちの現在地や性格を見極めながら、教育者としての小嶺さんが教え子たちの将来をも見すえてきた跡が伝わってくる。 ベガルタ仙台でプレーした2017シーズンを最後に引退し、仙台大へ入学し直した上で指導者の道を歩み始めた平山は当時、こんな言葉を残している。 「高校時代の3年間はサッカーだけではなく、人間としての在り方も教わりました。自分としてはそういうことも教えられる指導者になりたいと思っています」 スパルタ的な厳しさが前面に押し出されながら、その一挙手一投足から愛情があふれてくる。だからこそ教え子たちは小嶺さんを慕い、卒業後も親交を持ち続けた。例えば大久保は7日に更新したSNSで、小嶺さんへの思いをこう綴っている。 「怖い怖いと思われていた先生。でも、私が知っている先生は本当に優しくていつも最高の笑顔を見せてくれる先生でした」 母校の島原商で昭和43年にスタートさせた指導者の道は平成を駆け抜け、令和になって4年目で監督のままで幕を閉じた。半世紀以上にもわたる指導者人生を、小嶺さんはどのように受け止めていたのか。数年前に「大した監督ではないですよ」と、豪快に笑い飛ばしながら語ってくれた言葉が蘇ってくる。 「ホンマに名前だけで、そのへんのゴミと一緒ですわ。ただ、ずっと監督をやってきて、苦しいと思ったことが一度もない。まずは指導者が楽しんで、体を張っていかないと。子どもたちが素晴らしい大人になってくれたら、指導者冥利に尽きるわけですから」 小嶺さんが最期まで貫いた生き様は、今後は指導者を目指したいと昨秋の引退会見で明かした大久保や、2日の3回戦で涙をのんだ長崎総合科学大付属の子どもたちを含めて、数え切れないほどの教え子たちのなかで永遠に受け継がれていく。(文中一部敬称略) (文責・藤江直人/スポーツライター)