追悼。高校サッカー界の”名将”小嶺忠敏氏が貫いたスパルタの信念と教え子に残した遺産…「監督が楽しんで体を張らないと」
無名だった長崎県立国見高を全国屈指の強豪に育て上げた名将、小嶺忠敏さんが7日午前4時すぎに肝不全のため入院先の長崎市内の病院で死去した。76歳だった。 小嶺さんが2008年から総監督を、2015年からは監督を務める長崎総合科学大付属は、開催中の第100回全国高校サッカー選手権に2年ぶり8度目の出場を果たしていた。しかし、小嶺さんは体調不良のために昨年末の1回戦からベンチ入りしていなかった。 長崎県出身の小嶺さんは大商大卒業後の1968年に、母校・島原商のサッカー部監督に就任。1977年のインターハイで長崎県勢として初優勝し、1984年に転任した国見では初出場で準優勝した1986年度の全国選手権から21大会連続出場を達成。現時点で最後となる連覇(2000-2001年度)を含めて、戦後最多タイとなる6度の優勝に導いた。 自費で購入したマイクロバスを自ら運転し、強敵を求めて全国を行脚した情熱と妥協を許さないスパルタ指導で育った教え子たちからは、島原商時代を含めて勝矢寿延、高木琢也、三浦淳寛、大久保嘉人、平山相太らが日本代表へ成長。半世紀以上にわたってサッカーへ愛情を注ぎ続けた名将が、サッカー界に残したものをあらためて追った。
大久保ら教え子に授けた「ひらめ」
ちょっぴり自慢げな表情を浮かべながら、大久保がふくらはぎを見せてくれたことがある。膨れ上がった筋肉が魚の形を連想させる。すかさずこう続けた。 「いまでもヒラメが残っているんですよ」 連日のように小嶺さんから課されたスパルタ指導で鍛え上げられた足腰、そのなかでもたくましいふくらはぎを、教え子たちは感謝の思いを込めて「ヒラメ」と呼ぶ。 国見の校舎から5kmほど離れた、たぬき山と呼ばれる小高い丘の頂点との間を数え切れないほど往復した。練習の合間や終了後だけでなく、試合や遠征帰りで疲労困憊していても、小嶺さんが「ちょっと走ってこいや」と言えばメニューが増える。 歯を食いしばりながら走った日々の積み重ねが、教え子たちに「ヒラメ」を授けた。対照的に長崎総合科学大付属は長崎市の市街地にある。同じような走り込みを課しているのかと聞くと、小嶺さんは苦笑しながらこんな言葉を返したことがある。 「みなさんは私を鬼みたいに言いますけどね。確かに以前はそうでしたけど、いまの時代で同じことをやったらみんな辞めてしまうし、故障者だらけでチームになりませんよ。時代の変化に合わせながら、負荷をだんだんと上げていかないと」 果たして、負荷を徐々に上げていきながら、やはり妥協はしなかった。 2018年にセレッソ大阪へ加入した、現時点で教え子のなかで最後から2番目のJリーガーとなるFW安藤瑞季(現水戸ホーリーホック)が、こう語ってくれたことがある。 「試合が終わって学校に帰ってきてからも、小嶺先生は普通に『はい、走れ』と言いましたからね。5kgくらいのメディシンボールを抱えて、ダッシュを繰り返すだけならラッキーだと思っていました。グラウンドの周り、1kmぐらいの距離を3分30秒のタイム設定で8周ほど走るのがとにかくきつくて」