5年前の事故で車イス生活の失意…「外に出る勇気」を与えてくれたパラ新種目バドミントンで里見紗李奈が涙の初代金メダル
千葉県八街市で生まれ育った里見は、中学時代にはバドミントン部に所属していた。もっとも本人に言わせれば、ほとんど真剣に打ち込まなかった「なんちゃってバドミントン部員」で、高校進学後はいわゆる「帰宅部」の日々を送った。 しかし、ファミリーレストランでのアルバイトに一生懸命だった高校生活が、3年生に進級した直後の2016年5月に大きく変わった。同乗していた車で交通事故に遭い、助手席で眠っていた里見は脊髄損傷の大けがを負った。 翌日に手術を受ける直前に、執刀する医師から成功しても歩けなくなると伝えられた。入院生活は9ヵ月にもおよんだが、その間に父親の敦さんは自宅をリフォーム。愛娘が車いす生活を不自由に感じないように、バリアフリー仕様を整えてくれた。 毎日のように面会に来てくれた母親の比奈子さんを含めて、家族の愛は十二分に伝わってきた。それでも、退院後は自宅からなかなか外に出られなかった。車いす生活を受け入れられず、不自由な姿を見られたくないと引っ込み思案になる自分がいた。 このままではいけないと思い立った敦さんは翌2017年春、今回の東京大会にも出場している村山浩(47、パシフィック車いすバドミントン/SMBCグリーンサービス)が創設したクラブの体験会へ「私、やる気ないから」と嫌がる娘を半ば強引に連れていった。練習を一生懸命に積んでいけばパラリンピックにも出られる――村山の言葉にまず敦さんが本気になった。 父に自動車教習所通いを促された里見は、運転免許を取得。ハンドル付近にアクセルとブレーキが装置されている仕様の自家用車で練習への日参が可能になった。 リハビリの一環として始めた障害者バドミントンにいつしか夢中になり、車いすの操作能力の向上に比例するように競技でも瞬く間に頭角を現した。 2019年の世界選手権で初優勝を果たしバドミントンが正式競技として採用される東京パラリンピックでの金メダルが目標となった。パラアスリートへと導いてくれた敦さんへの感謝の思いは、いまではすべての障害者へのエールに変わっている。 「家族に見てもらいたいのはもちろんですけど、障害を持っていて、外に出る勇気がない方々が何かを感じて、外に出られるきっかけになるようなプレーができたら」 自国開催のパラリンピックにおける自分の姿をこうイメージしていた里見は、自らの人生も「最終的には歩けるようになる、と思っています」とポジティブに受け止めている。
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