神技コントロールと必殺技を携えてボッチャ個人で史上初の金メダルを獲得した杉村英孝が伝えたかったメッセージとは?
手に汗握るミリ単位の攻防が繰り広げられた末に、競技名「ボッチャ」がイタリア語に由来する、ヨーロッパ発祥の“地上のカーリング”に新たな歴史が刻まれた。 東京パラリンピック第9日目の1日に有明体操競技場で行われたボッチャ個人(脳性まひBC2)決勝で、杉村英孝(39・伊豆介護センター)が前回リオ大会覇者のワッチャラポン・ウォンサ(30・タイ)を破り、この競技で日本勢初の金メダルを獲得した。 準決勝でロンドン大会金メダリストのマシエル・サントス(35・ブラジル)に3-2で競り勝った杉村は、パラリンピック連覇を狙った強豪をも緻密な戦略と正確無比なショットで終始圧倒。最終第4エンドまで1ポイントも与えない、完璧な展開から5-0で勝利して快挙を達成。今大会の日本選手団に6個目の金メダルをもたらした。
必殺技「スギムライジング」が炸裂
自らの名前が冠された大技で、大一番の流れを呼び込んだ。第1エンドの3投目。指先でつまむように持った青色のボールが、杉村の左手から放たれた直後だった。 標的はジャックボールと呼ばれる白色の目標球。ただ、周囲を自らの青、ウォンサの赤のボールがそれぞれ2個ずつ、計4個に取り囲まれる形で隠れている。 果たして、勢いよく投じられたボールは、まず青色のボールに当たってはね上がった。このとき、最初にあった青色のボールはジャックボールの真横へずれた。そして、宙を舞っていたボールはそのちょうどその隙間に、寸分違わずに着弾した。 コート上ではなく、ジャックボールと青色のボールの上に乗る奇跡の展開。正確無比なコントロールからジャックボールにピタリとつける光景が繰り返され、いつしか名前をもじって「スギムライジング」と命名された大技が決まった瞬間だった。 ボッチャは青と赤のボールを4分間の制限時間内にそれぞれ6球ずつ投じ、最終的にジャックボールにどれだけ近づけるかを競い合う。最初に1球ずつを投げ合った後は、ジャックボールの最も近くに寄せられていない選手から投じていく。 場面を第1エンドに戻せば次は遠い方、つまりはウォンサの4投目になる。しかし、選択肢は限られていた。リオ大会の金メダリストは「スギムライジング」を介してできあがった密集に赤いボールを強く当てて、青赤のボールを分散させるしか手がなかった。 一投をめぐって緻密な戦略も火花を散らす、ボッチャ最大の醍醐味がここにある。 そして、後塵を拝したウォンサが6球を投げ終えた時点で、ジャックボールに最も近いボールは杉村の青だった。すでに1ポイントを確定させていた杉村は、残る2球のうちひとつでさらにポイントを上乗せし、2-0として決勝の主導権そのものを握った。 「今大会は調子自体、最初のうちはあまりよくありませんでした。でも、ひとつひとつ勝つことを心がけていくうちに少しずつ調子も上がり、最後にいい結果を出せました」 日本勢として個人で初のボッチャのメダルを、それも金色の輝きを添えて手にするまでの過程をこう振り返った杉村は静岡県伊東市で生まれ育った。先天性の脳性まひがあり、小学校から高校までは静岡市内の特別支援学校に通った。 転機は高等部3年のときに訪れた。先生と一緒に見たビデオを介して、重度障害者のためにヨーロッパで考案された、ボッチャというスポーツの存在を知った。翌年に静岡県内で開催された大会の団体戦で3位に入ると、ますます魅せられていった。 当初は友人たちと触れ合える場所だったコートには、ジャックボールに対するコントールの有無を、さらには戦略や相手選手との駆け引きを問われる奥深さが凝縮されていた。何よりも電動車いすを使用する日常生活で周囲のサポートを必要とした自分が、たった一人で考えながら最終的な判断を下し、競い合える環境が嬉しくてたまらなかった。