ゆとり先生の教育提言(5) 分からないものは「怖い」?
この発表用の原稿作成に関わったメンバーの中でとても印象に残っている高校生がいます。現在は会社員として活躍 している大和美緒さん(26)。高校在学中、立花さんと積極的に交流し、大学進学後も社会学のアプローチで差別の構造を学びました。自身が学んだことを積極的に後輩高校生に伝えることにも努めました。 私にとって立花さんとの交流は、2008年以来、立花さんが亡くなるまでの9年間に連続性があり、私の思考は、その連続性の中で発展し続けていたつもりです。しかし、私と関わる高校生は毎年入れ替わります。指導者である私や大和さんのような先輩に連れられ、受動的に交流を続けることが活動を「受け継ぐ」ことなのでしょうか。私はそうは思いません。
大和さんのように最初は私から「邑久光明園に行ってみない?」と声を掛けられつつも、出会った立花さんとの関わりを主体的に考え、継続的に会い、そのことを後輩に伝え、後輩は、大和さんから得たことを咀嚼(そしゃく)し更に思考を進める。このことが活動の真髄を「受け継ぐ」ことなのではないでしょうか。大和さんはこのことを「思考の連鎖」という言葉で表現していました。
なぜ差別・偏見は無くならない?
私は毎年高校生に「なぜ、世の中から差別と偏見は無くならないのか?」ということを問うてきました。非常に大きくて普遍的なテーマ、かつ答えはそう簡単に見つかりません。 立花さんは「私のようなハンセン病患者が亡くなり、差別偏見する人も亡くなれば、差別はなくなります」と語りました 。 この言葉をどう受け止めればよいのか、悩む生徒たち。その際、大きく助けになったのは先輩である大和さんのアドバイスでした。
「自分たちだけで答えを見つけなくてもいいよ。きっかけは野村先生の『行ってみない?』の一言でたまたま知った立花さんのこと、ハンセン病のことかもしれないけど、答えを見つけるって重いよね? 当然だよ。でも、今、自分たちが『知った』ことを『こんな事実がある、私はこう思った!』と次の後輩に伝えるだけでもいいんじゃないかな?」