怨霊の幸う国・日本 源氏物語のもう一つの読み方とは?
怨霊の幸わう国
日本文化の歴史は怨霊に満ちている。抜群の才能をもちながら、日本社会に顕著な、突出者を嫌う論理=和の論理によって、政治的に排斥された者が怨霊となる。しかしまたその「和の論理」によって神として祭り上げられ、その才能が残した思想あるいは流派が隆盛をきわめる傾向がある。 とはいえ僕は、自然科学を基本とする工学部で教鞭をとってきた身であり、工学博士でもあり、きわめて科学的な世界観をもつ人間である。この世には怨霊が存在し、その力が人とその世に禍をもたらすと主張するオカルト論者ではない。そういった主張で利を上げようとする組織や個人には嫌悪感を覚える。 しかし「都市化のルサンチマン」というテーマを考えつづけてきて、人間がその心に嫉妬や怨念を抱くのは必然であると考えるようになった。世の道徳家は常に感謝して生きなさいなどというが、それは表面的なことで、人は深いところで嫉妬と怨念を抱くものだ。しかも、パレスティナなどの紛争を考察すれば、人間集団の怨念は、歴史的に蓄積するものと思われる。 そう考えると、人間の怨念が凝り固まった怨霊というものを仮定し、調伏し、祭り上げ、そのエネルギーを昇華させることによって、現実の災厄とならないようにするのもひとつの方法ではないか。 神の存在を科学的に証明することは困難であるが、神の不在を証明することも困難である。同様に、怨霊の存在を科学的に証明することは困難であるが、怨霊の不在を証明することも困難である。考えようによっては、一神教の絶対神を仮定するより、怨霊を仮定する方が穏健であるかもしれない。 日本は「和を尊ぶ国」であると同時に、その裏返しとして「怨霊の幸(さき)わう国」ではないか。 アインシュタインはいった。「知性の過信は危険である」と。 人は、物語の中に出てくる人物を愛する。人は人を愛するが、それは「人の物語」を愛するのではないか。怨霊とはその「人の物語」が反転した結晶体であろう。 参照 藤本勝義 『源氏物語の〈物の怪〉 文学と記録の狭間』 笠間書院1994 山田雄司 『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院』 中公新書2014