怨霊の幸う国・日本 源氏物語のもう一つの読み方とは?
血の怨霊・地(武)の怨霊・知の怨霊
一般に、菅原道真と平将門と崇徳院の怨霊が、日本の三大怨霊とされる。これについては前に「鬼滅の刃」ブームを機会に論じたので、重複する部分もあるが、ごく簡単に紹介する。 菅原道真はきわめて聡明で、文章博士(もんじょうはかせ)となり、いくつかの漢詩集や歴史書を編み、政治にも深く関与した。しかしその知的能力を恐れた藤原氏によって罪を着せられ、遠く大宰府に左遷される。その死後に続いた都の災厄が道真の祟りとされ、神として祭り上げることによる鎮魂(たましずめ)が図られた。「天神」である。以来、道真は学問の神として、太宰府天満宮、京都の北野天満宮、東京の湯島天神(正式には湯島天満宮)などに祀られている。 平将門は、桓武平氏の血を引き、武力によって関東の争いを征し「新皇」と称して独立国のように治めようとしたが、都の勢力によって撃たれ晒し首とされた。近親者も皆殺しにするなどあまりにも酷いやり方だったので、将門の首が夜空に飛び去ったとする伝説があり、東国を中心に怨霊伝説が広まった。現在も、東京の大手町には将門の首塚が祀られ、再開発計画でも手が出せずにいる。 崇徳院は、父とされる天皇の子ではなく実はその祖父(崇徳の曽祖父)である院の子という負目があり、天皇となっても院となっても実権を握れず、保元の乱で讃岐へ流される。『保元物語』によれば、崇徳院は舌先を噛み切って「日本国の大魔縁となる」と血書し、髪と爪を伸ばしたままに生きたとされる。その後、怨霊伝説が広まったが、歴史学者の山田雄司氏によれば、これは隠岐へ流された後鳥羽院の怨霊と重ねられたと考えるべきだという。 藤原という血の権力が、知の象徴たる道真を「知の怨霊」とし、武の象徴たる将門を「武の怨霊」とし、血の象徴たる崇徳院を「血の怨霊」としたといえる。少し前に「血の権力・地(武)の権力・知の権力」を論じたが、怨霊にもその三つがあるようだ。 平安末期から鎌倉初期に怨霊が多いのは、政治の実権が、天皇と貴族の手から武家の手に移ることへの衝撃だろう。僕は承久の変における北条政子の演説を重視している。後鳥羽上皇が鎌倉を攻め、天皇と貴族の世をとりもどそうとしたときに、関東武士団をふるい立たせ、逆に京に攻め上ることによって江戸期に至るまでの武家の世を確定させたのだ。「時代を変えた」という意味で、日本史上最大の演説ではなかったか。政子には、短期にして滅んだ源氏の怨霊、特に天才的軍人であった義経と天才的歌人であった実朝の怨霊が乗り移ったとも考えられる。 政治的ではなく、文化的な怨霊もある。世阿弥は足利義満に寵愛され,怨霊を主役とする能を大成したが、最後には罪を着せられ佐渡へ流された。能というきわめて禁欲的な形式が日本の舞台芸術のもととなったのは世阿弥の怨霊が作用したのだともとれる。千利休は信長と秀吉に重く用いられたが、最後には切腹しなければならなかった。侘び茶というこれも禁欲的な形式が、後世の日本文化として広がったのは、利休の怨霊が作用したともとれる。