怨霊の幸う国・日本 源氏物語のもう一つの読み方とは?
仏教と神道と怨霊と天皇の役割分担
平安時代は神仏習合が進み、仏教と神道の境が曖昧であった。しかしそれなりの役割分担があったようだ。モノノケを制圧(調伏)するのは主として仏教者の役割であったが、神事の最中であれば、仏教者は遠慮し、その災厄が神によるとなれば、仏教者も調伏をあきらめたようだ。どちらかといえば仏教は、怨霊を普遍性の力で抑え込む傾向にあり、神道は、怨霊を祭りあげて善神とする傾向がある。 仏教の読経や加持祈祷によって怨霊を調伏するさまは、ヨーロッパにおいて魔女や吸血鬼を十字架によって退散させるさまに似ている。仏教という国際思想が日本土着の神道と葛藤し融合する過程は、ヨーロッパにおいてローマ帝国という普遍性の文明から出現したキリスト教という思想が、北上するに従って、ゲルマンやケルトなどの土着の信仰と葛藤し融合していく過程と似ている。 また当時、怨霊を退散させる役割をもつ陰陽師という職業があった。有名な安倍晴明は陰陽寮に属するいわば役人であり、天皇を頂点とする律令体制に組み込まれていた。天文(空間)と暦(時間)に関する学問の専門家で、方角(空間)と日にち(時間)の吉凶を占う役割がある。中国的な天の概念と道教が背景にあり、天皇制の理論的一翼をになう存在であった。 僕は、日本文化における精神世界には、基本的な四つの要素があると考えている。「仏・神・鬼・天」である。怨霊は鬼でもあり、天は中国的な道教的な概念であるが日本の天皇制にもつうじる。 詳述すれば長くなり本記事の趣旨を外れるので、ここでは僕の解釈を端的に表現する。「仏」とは人が到達すべきものであり、「神」とは福をもたらすものであり、「鬼」とは禍をもたらすものであり、「天」とは時空の運行を司るものである。日本の精神世界では、この四要素が絡み合っている。いつか詳細に論じてみたい。 また山田雄司氏は、日本にある「怨親平等」という思想を紹介している。死んで霊となれば敵も味方も平等に弔うということだ。鎌倉の円覚寺は、元寇で命を落とした元側の兵をも鎮魂し菩提を弔うために創建されたという。近代になっても日清戦争、日露戦争、日中戦争の犠牲者は、東亜のために命を落としたものとして、敵味方なく忠霊鎮魂の碑が建てられたという。そう考えれば、日本の怨霊思想は、ある種の国際主義につながるのだ。