“コロナ差別”乗り越えるヒント ハンセン病訴訟弁護士に聞く
私たちが今後も長く戦うことになりそうな新型コロナウイルス。患者やその家族、医療関係者らへの中傷や排除は、根強い差別がなくならないハンセン病など過去の感染症に似通う。繰り返される差別の構造。私たちはどう向き合い、いかに克服していけばいいのか。過去の教訓から学べる点はないのか。ハンセン病患者の隔離政策をめぐる国家賠償請求訴訟や、患者・元患者の家族が不当な扱いを受けたとして政府を相手取って提起した家族訴訟で弁護団共同代表を務めた弁護士の徳田靖之さん(76)=大分県別府市=にヒントを求めた。
患者は「被害者」、周囲は拒否でなく包容を
――感染力などの違いなどはあるものの、ハンセン病と今回の新型コロナウイルスでは患者や家族が差別される構造は似ています。この状況をどう見ていますか。 コロナウイルスの問題は、いままで私が関わったハンセン病や薬害エイズにまつわるできごとと比較して見ています。コロナでもハンセン病でも、患者や関係者への差別が起こる根源は、感染者が言わば「社会にとって危険な存在」とされてしまうところにある気がします。コロナについては、かなりの人たちが感染したことに責任を問われるべきではないはずです。典型的な例では、家族感染したような人たちです。もちろん不注意で感染した人もいますが、そうした人も含めて患者は皆、「被害者」と捉えられるべきだと私は思います。 私の住む大分県でもコロナに関して、病院でクラスター(集団感染)が発生したとか、放送局で感染者が出たなどと報道されました。そうしたところへ手紙やネットなどを介して批判や中傷があふれる状況になれば、感染が知られた本人や家族は、世の中で息を潜めて生きていくしかなくなるでしょう。そのときに一番恐ろしいのは、「感染しているかもしれない」人が検査に行くのをものすごく躊躇(ちゅうちょ)してしまうようになることです。これは患者を表面化させずに潜らせてしまい、感染症対策を遅らせる悪循環につながります。 またウイルスや細菌は、一度人間の体の中に入ってしまうと取り出すのが非常に難しい。そのため私たちは、病気の原因を何とかしなければならない時には、病原体と感染している人間とを区別できなくなり、感染者の排除に傾きがちです。ウイルスは簡単に排除できない「避けられないもの」なので、感染した人と「まだ」していない人が共に乗り越える社会をつくっていくしかない。「まだの人」も、たまたま感染していないだけなのだから、患者を支えることでウイルスと戦うという意識が必要だと思っています。 ――「ウイルスを共に乗り越える社会」とは、具体的にはどんな社会でしょうか。 具体的には、第一線でウイルスと戦う医療従事者たちが守られながら、患者に最善の治療が提供できる。そして感染した人やその家族が誰からも後ろ指をさされず、退院すれば「大変だったね」と地域社会や職場でちゃんと迎える。そうした環境を積極的につくるべきです。抽象的な言葉ですが、「いまこそ一つになる」ことです。感染した人たちや最前線で戦う人たちに、周囲に支えられているという実感を持ってもらうことが必要です。 そのためには、もちろん検査で陰性が確認されることが前提の話ですが、医療機関に勤める人の子どもが保育所から登園自粛を求められるとか、家族が「職場に来ないでくれ」なんて言われることは、なくさないといけません。病院に弁当を届けるなど応援の動きが活発な一方で、そうした家族まで嫌な思いをするという問題は完全には解決していないのではないかと懸念しています。 言うのは簡単ですが、実際には登園すればほかの子どもの保護者から保育所が責められるなど、シビアな議論があるでしょう。感染予防と感染者を支えることの両方が大事なのだとしっかり理解されないと、感染していない人はどうしても予防することしか考えられず、我が子を守りたい善意のまま差別者になってしまいます。これは、私がハンセン病などの裁判を経験する中で学んだことです。