“コロナ差別”乗り越えるヒント ハンセン病訴訟弁護士に聞く
元患者と“父・子”の関係に
――ハンセン病に関わるようになったきっかけは、鹿児島の療養所にいた男性が九州の弁護士たちに宛てた一通の手紙だそうですね。らい予防法(詳しくは関連記事「【Q&A】『ハンセン病』とは?」を参照)のような法律を存続させたことについて、「法曹界は傍観したままだ」と指摘する内容でした。 僕は弁護士の仕事に誇りを持って働いてきましたが、ハンセン病の場合はいわゆる法曹界の人たちが責任を問われる問題だと、その手紙で思い知らされたのですね。もちろん根本では国が責任を負うべきなのですが、患者を隔離するという政策が1世紀近くも続いたことには、誤った法律を支え続けてきた社会全体にも責任があるのだと。 そして最も責任を問われるべきは人権の問題に関わる弁護士、そして医師たち、それから学校での問題を放置していた教育界だし、隔離政策を擁護し続けたマスコミだ、というふうに考えるようになったのです。だから私は、自分も含めて弁護士たちが何もしてこなかったことを、少しでも償いたくて関わってきたわけです。20数年になりますが、終わりはありませんね。 ――手紙をもらった後は療養所に通い、時には入居者の居室で酒盛りをしながら裁判の原告たちと交流を重ねたと聞きました。 原告団の団長さんは、1943年ごろに奥さんが妊娠したのですが、強制的に堕胎させられました。だから、44年4月生まれの私に対して自分の子どもの生まれ変わりのように接してくれ、私も「お父さん」と呼ぶようになりました。療養所にはほかに兄や弟のような人もできて、家族同然の関係が持てました。好きなお酒を飲んで一緒に酔っぱらったのも、楽しかったですね。 そうした人たちとの出会いがあるので、私の人生は恵まれていると思います。先日まで心筋梗塞で入院していたのですが、その時も「いま死んでも悔いはない」と心底思えるほどでした。でも命を助けてもらったし、まだ山積している課題に取り組まないといけませんが。