尚弥がいなかったらボクシングすらやっていない──世界王者・井上拓真が明かす「歯がゆかった日々」 #ニュースその後
あまりに豪快な勝ちっぷりだった。プロボクシングのWBA世界バンタム級王者・井上拓真(28)は今年2月、強敵ジェルウィン・アンカハスに対して9回、強烈な右ボディーで沈めて初防衛を果たした。世界スーパーバンタム級4団体統一の兄・井上尚弥(31)を追い、自分へのもどかしさと向き合った日々が覚醒を呼び込んだ。圧巻のアンカハス戦を経て、至った心境の変化とは――。(取材・文:二宮寿朗/撮影:矢内耕平/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
あそこまで喜んだ父の姿は初めてでした
これが嬉し泣きっていうやつか。 飛び出してくる涙を拭うこともなく、ひとしきり感情を爆発させた後で客観的に己を見つめる井上拓真がいた。 2月24日、東京・両国国技館。28歳のWBA世界バンタム級王者は、ジェルウィン・アンカハスに9回KO勝ちして初防衛に成功した。トレーナーの父・真吾に視線を向ければ、息子いわく「涙がちょちょぎれていた」。 過去に嬉し泣きをした記憶も、父が人前で涙を見せた記憶もない。心の底からあふれる感情の発露に、彼は心地よく身を委ねた。 「相手はスーパーフライ級で9回防衛している名チャンピオン。自信と不安が半々で、今回は負けるかもしれないっていう瀬戸際で、ずっと練習をやってきました。KOで終わることができた嬉しさもそうなんですけど、安堵感っていうんですかね。自然と(涙が)こぼれてきましたし、あそこまで喜んでいる父の姿を見るのも初めてでした」
好戦的な挑戦者に対して持ち前のテクニックとスピードで勝負すると思いきや、足を止めてのド突き合い。9回、右ボディーをめりこませると、突き上げるようにしてもう一発。アンカハスはキャンバスにうずくまり、立ち上がることはできなかった。 「今回は接近戦を想定したうえで(体が)くっついたらボディーっていうのは父からずっと言われてきた。ナオみたいに一発でタイミングよく倒せるわけじゃないので。コツコツとスタミナを削ってボディーを打ち続けていったら、ああいうふうに終わらせることができました」 ナオとは、日本ボクシング界のスーパースター井上尚弥。圧倒的な兄の陰に弟の存在は隠れがちだった。 「自分のボクシングは未完成」だと口にし、満足することも、父を納得させることもできずにいた。だが今回はいつも何かしらある父からのダメ出しが一切なかった。 「褒められることなんて、もうほぼなかったんで。あんなふうに抱き合ったのも初めてでしたから」 普段、感情をあまり出さない人の口もとから笑みがこぼれた。