【光る君へ】あまりに呆気なかった、「まひろ」の夫・藤原宣孝の最期
今回の大河ドラマ「光る君へ」は内容が盛りだくさんだったが、中でも注目されるのは、「まひろ」の夫・藤原宣孝の最期である。意外に素っ気なかったので、もう少し詳しく確認することにしよう。
藤原宣孝が亡くなったのは、長保3年(1001)4月25日のことである。「まひろ」と宣孝の結婚生活は、約3年で突然終止符を打ったといえよう。宣孝の死を記す史料は乏しい。
公家の系図集『尊卑分脈』には、「長保三四廿五(長保3年(1001)4月25日)卒」と記すだけで、死因などは書いていない。残念ながら、『勧修寺家一門系図』も『尊卑分脈』と同じく、「長保三四廿五卒」と記録するのみである。
宣孝の死因については推測するしかないが、当時の京都市中では疫病が流行っていたので、疫病に罹った可能性がある。宣孝の年齢は50代だったと考えられるが、当時としてはそれなりに高齢だったので、病気に打ち勝てなかったのだろう。
宣孝が「まひろ」と結ばれたのは、長徳4年(998)頃といわれている。その際、宣孝は「将来、必ず大河のごとき、縁の深い夫婦になる」と心に誓ったといわれているが、どこまで果たすことができたのだろうか。「まひろ」も悲しかったに違いない。
「まひろ」にとって幸運だったのは、宣孝との間に賢子をもうけたことだった。『紫式部集』には、「若竹の 生ひ行く末を 祈るかな この世を憂しと 厭ふものから」という和歌が収録されている。
若竹とは賢子のことで、「まひろ」はその健やかな成長を心から祈っている。その一方で、「まひろ」はこの世に対して強い絶望を感じていたのである。しかし、親としては、幼い賢子を支えるべく、力強く生きていかねばならなかった。
同じく「まひろ」は、『紫式部集』に「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」という和歌を残した。「見し人の けぶりとなりし」とは、宣孝が火葬されたことを意味しよう。
宣孝と「まひろ」の結婚生活を物語る史料は非常に乏しいが、仲睦まじきものだったと考えたい。そうでなければ、我が子や夫への愛情のこもった和歌を詠めないだろう。