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追悼・中西太さん。「ベンチがアホやから……」事件の真相は明かせない

楊順行スポーツライター
(写真:アフロスポーツ)

 何度、取材で自宅にお邪魔したことか。たいがい午前中で、リビングに入っていくとメジャーリーグ中継を見やりながら、「おお」と向けてくる視線が鋭かった。それでいて、表情が柔和なのが不思議だ。

「ワシは、いまでいう高校1年でセンバツに出たんだよ」

 香川・高松一高時代は、学制改革のはざま。前年秋の四国大会で、旧制中学3年として活躍した中西さんは、特例として1949年のセンバツに出場すると、8強に進出。同年夏は4強に進み、準決勝では初出場の伏兵・湘南(神奈川)に延長戦で敗れた。その湘南には、フジテレビ系列の番組「プロ野球ニュース」のキャスターとしておなじみとなる佐々木信也(元大毎ほか)や、のちの高野連会長・脇村春夫がいた。51年夏には2試合連続のランニング・ホームランを放ち、また痛烈なライナーを捕球した二塁手がひっくり返るという度外れた打棒に、評論家の飛田穂洲がつけたニックネームが「怪童」である。

 卒業後は西鉄ライオンズ(現西武)に入団。確か長崎キャンプに合流するときだったか、

「振り分け荷物(江戸時代の旅人のような姿)で駅の構内を走っていると、先輩たちから笑われたね」

 現役時代には、信じられないような話がいくつもある。たとえば、53年8月29日。福岡市内にあった平和台球場のスコアボードを超え、プロ野球史上最長といわれる160メートル超のホームランを放った。打たれた林義一投手(大映・ロッテの前身のひとつ)は、「(捕れる打球かと思って)ジャンプしたら、ぐんぐん伸びてバックスクリーンのはるか上を越えていった」などと、物理の法則からはありえない感想をもらしている。

 その53年に西鉄入りした豊田泰光によると、「太さんは、あれくらいのを何本も打っている。当時は照明が暗くてはっきりしないけど、左中間に打った別の一発なんかはどこまで飛んでいったか……。とにかく、もっと大きいのもあったはず」。それでも中西さん本人は、

「160メートルのときは実は、調子が下降気味だった。それにしても、よく飛んだもんだね。もっとも本人は懸命に走っているから、どれだけ飛んだかなどわからないんだ」

あまりの打球の速さに有望株が……

 あるいは55年。地面すれすれのライナーが、毎日(現ロッテ)のショート・有町昌昭の足を直撃した。あまりの打球の速さにグラブを出すこともできなかった有町は当時、高卒2年目で主力級の有望株だったが、「あんな打球、捕る自信がない」とこの年限りで引退している。南海(現ソフトバンク)の捕手だった野村克也は、「中西さんがベンチ前で素振りをすると、南海ベンチまで"ブンッ"という音が聞こえてきた。それが評判になってね。あんなの、後にも先にも中西さん一人」。

 プロ1年目の52年は打率.281、12本塁打で新人王を獲得し、2年目は打率.314、36本塁打、36盗塁で日本プロ野球史上3人目、最年少にしてトリプルスリーを達成。ずんぐり体型でありながら、「ずっと健康優良児で足は速かったね」というのが自慢だった。

 その年は本塁打王と打点王を獲得し、打率は2位だったのを皮切りに、もうちょっとで三冠王、という成績が何年続いたことか。ことに惜しかったのが56年で、4年連続の本塁打王、打点王の二冠に加えて、打率はトップ・豊田に5毛差の2位。58年も、ホームランと打率、打点でずっとトップを走っていたが、ペナントレース最終日に大映・葛城隆雄に1打点抜かれた。なんとも惜しい。偉業達成にギラギラし、どこか一度でもなりふり構わずチャレンジすれば、戦後初の三冠王は取れていても不思議はなかった。だけど、「三冠王というのが、いまほど騒がれなかった時代だから」と、欲がないのが中西さんだった。

 たとえば56年は、豊田と5毛差で迎えた最終戦。前日にリーグ優勝を決めたこともあり、中西さんは三原脩監督に欠場を直訴した。やはりこの試合に欠場し、首位打者となった豊田は、一本気なだけに、タイトルを譲られたようでおもしろくなかったらしいが、中西さんは「人を押しのけてまで三冠王を取りたいとは思わないし、そもそもワシは、気が優しいんよ」。

 伝説の3連覇の中心だったその豊田さん、仰木彬さん、稲尾和久さん……ら、後輩たちが先に世を去り、「みんな、病気がちのワシより早く逝ってしもうて……」と寂しそうに語っていたものだ。「気が優しいから、監督には向いてなかったね」という中西さん。阪神で監督を務めていた81年、江本孟紀によって「ベンチがアホやから……」とやり玉に挙げられたことがある。その真相も聞いたのだが、ここでは明かさないでおこう。

 2008年、第90回記念の夏の甲子園では、「甲子園レジェンズ」の一員として、復刻した高校時代のユニフォームで開会式に登場。球場内でご挨拶したときの、照れくさそうな笑顔が思い出される。合掌。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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