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お疲れ様でした! 和田毅。浜田高時代、甲子園で被弾したのはだれ?

楊順行スポーツライター
写真はカブス時代(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

「おおっ、やっぱすげえな、アイツ。さすがドラフト候補……打つなぁ」

 1998年8月19日、第80回全国高校野球選手権の14日目。浜田(島根)が帝京(東東京)を2点リードして迎えた8回表、帝京は1死二塁から、三番・森本稀哲(元西武ほか)が甘いストレートをバックスクリーンへ。浜田のエースは、マウントで思わず感嘆したという。だけど、と続けた。

「ホームランでよかったんですよ。あれがもし長打で、ランナーが残っていたら、バタバタして、さらにたたみかけられていたはず。でもランナーがいなくなって、むしろリセットできました。だから、タイムを取ってマウンドに集まったときも、みんなで“すげえなぁ”と笑い合ってましたね。監督からの伝令が“ここは落ち着いていけよ”というので、“おいおい、監督のほうがテンパっているぞ”と、和んだくらいです」

 そのエースが、和田毅だ。和田がその後を切り抜けると、その裏の浜田は押し出しで1点をもぎ取る。和田は9回を三者凡退に抑え、ナインのいう「田舎の公立校」が優勝候補を破り、チーム初のベスト8に進出した。和田に、当時を詳しく聞いたことがある。

「だれがどう見ても浜田がコテンパンに負けると予想されるなかで、帝京戦に勝てたのはうれしかったですね。当時僕のまっすぐは131キロがMaxで、それも1試合に1球か2球(笑)。だけど、不思議と負ける気はしなかったんですよ」

 大社(島根)で甲子園出場歴のある新田均監督が、母校の監督になったのは95年。和田たちの入学は,その1年後だ。実は、大社への進学が決まりかけていた。だが和田の父・雅之さんが新田監督と同じ日体大の出身という縁もあり、実家のある出雲市から約70キロ離れた浜田への進学に方向転換した。

 ただ和田には、中学時代にさほどの実績があるわけじゃなく、新田監督もプレーを見たことがない。だから10人の新入生を前にして、「和田、いうのはどれかいな?」とたずね、そこで初めて左利きだと知ったくらいだ。左かぁ、外野しかないな……だから、と和田は笑う。

「最初に買った硬式のグラブは、外野用なんです」

 ただなにしろ、部員数がカツカツの公立校である。試しにブルペンで投げさせると、イキのいいタマを放った。新田監督によると、「身長は170ないし、体重も55キロくらいで、遠投させても77メートル。それでもバネがあり、運動神経がよかった。実際に試合に使ってみると、ノースリーになっても置きにいかず、腕を振って投げるんです。そのあたりがピッチャー向きでしたね」。その目利き通り、和田は順調に育ち、97年夏、浜田は16年ぶりの甲子園出場を果たす。

1学年上の石川雅規との投げ合いは……

 秋田商との1回戦。浜田は、石川雅規(現ヤクルト)から3点を奪い、2点リードで9回の守りを迎えた。だが、無死一、二塁から和田の犠打エラーなどで同点に追いつかれ、最後は石川に押し出し四球——。悔しいサヨナラ負けを喫した。新チームは翌年センバツを目ざし、秋の中国大会まで進出したが、そこで和田に上腕三頭筋を断裂のアクシデント。センバツは夢と消えた。こうなった以上、目標は夏に切り替えるしかない。

 そこで新田監督は考えた。「和田は、夏には間に合わないことにしよう」。診断によると、2カ月ギプスで固定して、リハビリに2カ月、夏には十分間に合うはず……。これは相当裏話ですよ、と和田は振り返った。

「つまり、県内のライバルに和田は投げられない、と思わせるわけです。だから春の大会では外野を守り、打球が飛んできたら、すぐそばにきたカットマンに山なりの返球です。チームでは、5月ころから連日100球投げていても、練習試合でさえ投げずに夏本番を迎えました」

 その思惑は当たった。7月、ようやく練習試合に登板した和田のデキはさんざんだったが、投げるごとに実戦感覚がよみがえる。エースのアクシデントの間にパワーアップした打線も、島根大会では打率4割超と好調。浜田は、2年連続で夏の甲子園にコマを進めることになる。

 初戦では和田が、富樫和大(元日本ハム)—加藤健(元巨人)のバッテリーを擁する新発田農(新潟)を5安打2失点に抑えて快勝し、帝京にも競り勝った。いずれも、相手のミスを点につなげ、こちらはノーエラー。前年夏、エラーから自滅したという負債を返済する、2つの白星だった。

 準々決勝は、豊田大谷(東愛知)との対戦。9回に2点差を追いついた浜田だが、10回にサヨナラで敗れる。和田の甲子園は、2年続けてサヨナラ負けだったわけだ。ちなみに——この日の第1試合では、横浜(東神奈川)とPL学園(南大阪)が、延長17回の名勝負を演じている。試合を待つ間、アルプススタンドと外野席の切れ目から、松坂大輔(元西武ほか)の投球を見たという和田。

「ちょっと別次元で、こういう人間がプロの一流になるんだろうな、と思いましたね」

 その松坂は、日米通算170勝で最多勝3回。和田の通算165勝、最多勝2回も、それと遜色ない。松坂世代最後の1人が、ついにユニフォームを脱ぐ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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