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樋口尚文の千夜千本 第30夜「イニシエーション・ラブ」(堤幸彦監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:毎日新聞デジタル)

あっちゃんとアラン・スミシーが召喚する80年代的フェイク感

「ネタバレ」という言葉が生まれ、広く共有されるようになったのは全国津々浦々までインターネットが普及してからのことだろう(ちなみに「ネタ」とは「種」の転倒語)。なぜなら、たとえばかつて70~80年代のホラー、ミステリー映画の惹句で「この結末は誰にも言わないでください」的な文言がよくあったけれども、その時分は別に映画会社が神経質にならなくても個人がSNSのようなメディアを持っていないから、せいぜいテレビやラジオの生放送で出演者の口が滑って・・・ということでもなければ、案外そのヒミツは喫茶店の雑談以上には広がる由もなかった。

思えばなんとうららかで牧歌的な時代であったかと思うのだが、今や試写室では厳重に情報の「解禁日」から語れる情報の「範囲」まで切なるお願いが宣伝側からなされるのである。そんな「ネタバレ」回避が至難な時代ゆえ、『イニシエーション・ラブ』などは試写用のプレスシートの「ネタ解説」部分は袋とじ(!)になっているし、なんと映画本篇のアタマにさえも「本作の大きな”秘密”」を劇場を出た後に明かさないでくださいねと異例のタイトルが付いている(「ネタバレ」自粛要請のタイトルが付いた映画というのは初めてではなかろうか)。もう稀代の念入りさなのである。

そもそも私は批評を書く時に「ネタバレ」には無頓着で、なぜなら「ネタ」がバレたらつまらないような映画は、古典落語に対する一発ギャグみたいなもともと「芸」のないものであって、上々の落語はオチから何からバレていても、その流れの緩急や間合いで幾度聴いても笑わせる。それが「芸」であって、いい映画は同様に「芸」で見せるから何度観ても面白い・・・という持論があるからだ。その割に本コラムの愛読者の方がツイッターで「千夜千本は極力ネタバレしないように配慮しながら作品の面白さを語っている」と書いてくださっていたので、知らず知らずのうちに配慮しているのかもしれないが、実のところ「ネタバレ」については余り気にしていない。

※でも以下の文章にはネタバレは含まれておりませんので、鑑賞前も安心してお読みください。

そんな私だから、この本篇にタイトルを付けてまで「ネタバレ」回避につとめる『イニシエーション・ラブ』はさすがに気にし過ぎではないかと思ったのだが、何の予備知識もいれずに最後まで観てみて、うーむこれは確かに内容を知らずに観たほうがいい珍しい映画ではあるなあと思った。というのは、たいていの「ネタバレ」を忌避する作品は「ネタ」によりかかっていてつまらないのだが、『イニシエーション・ラブ』がしばし内緒にしてもらおうとしているのは「ネタ」(これ自体は別にたいしたことない)ではなく、そこに話法の「芸」が潜んでいることなのだ。通常「ネタバレ」を気にする映画には意表をつく「どんでん返し」を用意しているわけだが、本作は最後にあっと驚くような隠された秘密の開陳が待っているわけではなくて、勝手に観客が映画を誤解していたというところに意外さがある。そうさせてしまう「芸」があるというわけである。

「ネタバレ」に注意しながらもう少し突っ込んで言えば、この映画にささやかな引っかけの企みがあるとするなら、ある人物同士の名前が同じという一点くらいで(それとて物語上の自然さは担保されている)、後は特に映画が無理な誘導をしているわけではない。むしろ、何食わぬ顔で物語をそのまま普通に描いていて、普通ならミスリードのために隠すところもそっけなくそのまま描いている。そんな次第で映画自体がいわゆる”燻製ニシンの虚偽”を仕掛けているわけでもないのに、最近のアリガチな映画の話法に慣れている観客ほど、そこから勝手に(全く勝手に)物語を作って納得してゆくに違いない。

したがって、この映画での最後の5分間の反転には、驚くべき事実の開示はなくて、逆に驚くべき事実などどこにもないのに、なんで自分は欺かれていたのだろうというおかしさ、意外さがあるのみだろう。要は映画は別にミスリードしていないのに、観客が勝手に自分をミスリードしてしまったわけだが、その理由は観客が昨今の映画表現の悪しき紋切型になれきってしまっているからなのだ。逆に言えばそこを突いた本作は映画表現の通俗性へのシニスムがみなぎっており、それは同時に作品のモチーフになっている80年代の文化風俗へのシニスムにも結びついている。それゆえ『シックス・センス』ばりに(?!)真実が反転したラストカットの前田敦子の笑顔をもってこの呆れた恋愛譚は一気に「80年代的なるもの」のハリボテ感へと凝集する。あっちゃんの「で、何か?」という不敵な笑顔に、”ああ、そういえば80年代のバブル期はこんなに何から何までインチキだったなあ!”とブラックなおかしみが噴き出す。

※と、「ネタバレ」衝動は亢進しているものの、以下の文章にも「ネタバレ」は含まれておりませんので安心してお読みください。

そんなこんなで本作はモチーフも語りの構造も含めて堤幸彦監督一流の「なんとなく、クリスタル」とも言うべき演習的80年代文化論にもなっている(ちなみに堤監督と田中康夫はほぼ同い齢)。それは当時をフラッシュバックさせる楽曲やキャスト(片岡鶴太郎と手塚理美の夫妻には唸った)、車やファッションなどの風俗・・・といった個々の記号もそうなのだが、何よりくだんの最後に訪れる壮大なるハリボテ感があまりにも80年代そのものなのであった。その意図にならって、全篇見事なまでのブリッ子演技を炸裂させる前田敦子がまたしても素晴らしい。前田敦子の一面として『もらとりあむタマ子』の対極の、昭和のお菓子メーカーのアイコンが似合ったりする部分があるが、今回はその貌を存分に活かしてこのフェイク感たっぷりの80年代的主人公を体現してみせた。

そして前田に絡む松田翔太も豊かで空虚な文化風俗に翻弄される、まだ不安定な若者をナチュラルに演じて好感が持てたが、さらにドラマの序盤を担う前田の相手役が圧倒的な存在感で目が離せない。なんとその俳優の名は宣材には「亜蘭澄司」と記されていて、正体が明かされていない。「亜蘭澄司」・・・アラン・スミシー・・・この遊びごころには爆笑したが、いったいそれが誰なのかは劇場で確認されたい(それが仮に今「ネタバレ」しても作品の印象は変わらないとは思うけれども、まあそこはお愉しみだ)。ちなみに直近の前作『悼む人』の堤幸彦監督はなんとも難儀で窮屈そうだったけれども、本作の嬉々とした弾けっぷりは洒落にもアラン・スミシーを名乗る必要のないものである。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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