樋口尚文の千夜千本 第220夜『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(アレックス・ガーランド監督)
「触知的」な恐怖描写と「内戦」のアイロニー
映画を見こんでいる人なら、アメリカで内戦が起こる映画と聞いて、まず「つまらなそうだな」と不安を覚えない向きはいないだろう。戦争映画はあまたあれど、戦争を俯瞰的な「大状況」としてスペクタキュラーに描けば、ただの絵巻物になってしまう。日本映画は戦中からそういう描き方がお家芸のごとくに継承されて、『ハワイ・マレー沖海戦』から『日本海大海戦』に至るまでそういうパノラミックな視座で描く作品は見かけるが、市川崑や塚本晋也の『野火』のように戦争を極限的な主観的世界で描く作品は得意ではないようである。アメリカでめちゃくちゃ派手な極限的主観映画『地獄の黙示録』が誕生した頃、わが国では壮大絵巻『二百三高地』を作っていた。これが史実の絵巻物ならまだしも歴史の教材くらいにはなりそうだが、アメリカの内戦という嘘ばなしを「大状況」として描いては、もう勝手になさいという感じだろう。
しかし、それこそ『地獄の黙示録』のような実質アートフィルムでなければ、なかなか大きなバジェットを伴う戦争映画を、「小状況」を煮詰めた個人主観で撮りあげるというのは困難なことだろう。なぜならばバカでもわかる「大状況」の絵解き、言わば紙芝居的なものにしないと大衆はついて来られず、莫大な製作費を回収できないからだ。そんなことを考えるだに、『シビル・ウォー』にはなんとなく食指が動かないのであった。
だが、蛮勇をふるって試写にのぞむと、それがアイマックスの大画面で展開されているとは思えない徹底した「小状況」の積み重ねがどこまでも続いてゆくではないか。そしてまさにここでは「大状況」を描かない、「大状況」が見えないことによって、人物たちをとりまく空気が不穏さを増していき、見えない敵に怯えながら目的地へ移動してゆく主人公たちの恐怖は、はちきれんばかりになってゆく。
こうしていったい何が起ころうとしているのかもわからない主人公たちの怯え、恐れを極点にまでもっていくのは、その「敵」が、あたかも人間に憑依したエイリアンのように、アメリカ国民の姿をしているということなのだ。ここで観る者は、なぜこの作品がアメリカの内戦という設定にこだわったか、その意図を大いに頷きながら肯定できることだろう。
この作品はまず地上の「小状況」からのアプローチにより、戦争を「触知的」に描ききろうと試みる。それは「大状況」から俯瞰したのどかな戦争絵図ではなく、見える範囲、聞こえる範囲で迫って来る戦争の怖さを(戦場に身を置くように)体験する。そして次は、そのたまらない恐怖を生んでいる戦争が「内戦」であるという設定によって、恐怖とともに圧倒的なシニカルさで戦争のナンセンスを伝えようというわけである。
同じ人間が殺戮しあう戦争というものは不条理であり究極の虚無であるわけだが、それは煎じ詰めれば同じ言語を話し、同じようなものを食い、同じような顔をしたアメリカ人どうしが殺し合うことと同じではないか、というわけである。「おまえはどういう種類のアメリカ人だ?」と尋ねては殺しまくる戦争というものはナンセンスの極みに映るが、しかし今ウクライナやガザで起こっていることは、まさにそれと変わりがない事象ではないか。そういった意味で、本作における合衆国「内戦」という一見突飛な設定は、戦争一般のラディカルなくだらなさを濃く抽出する装置なのだった。
しかしなんでもかんでもありそうなアメリカ映画にあって、合衆国で内戦が起こる映画というのはあまり聞いたことがない。それこそ南北戦争の昔に遡るとか、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』のようなSF仕立てにでもしないと、さすがにアメリカの観客も身内が殺し合う映画はあまり観たくないということだろうが、本作はそういった数々の障壁を果敢に突破した大がかりな実験作である。